2008年2月29日金曜日

「教師に何ができるのか」

 京都教育大学にいた時代の「日本言語文化専攻」の在学生や卒業生たちでやっているサイトがある。そこの掲示板にきょうこういう書き込みがあった。
「いや、「何をするべきか」は私のような新米でもいつも考えていることなので、多分「教師に何ができるのか」から考えないといけないなー、と駒田先生のブログを読んでおもっています。」

 「教師に何ができるのか」。
 私のような教師には何もできることはないだろう。できることはただ一つ、学生たちが学ぶのを邪魔しないこと、である。と、一応言ってみることはできる。
 しかし、実は、それが、大変難しい。
 教師は自分が絶対に譲れないと信じている「規則」の束――それが「知識の集合」であろうと思想であろう――を学生に提示しなければならない。そうでなければ教える意味がない、と先日書いた。
 しかし、
さっきの龍之介の台詞とも関連することだが、他方で教師は自分の無能、能力の限界というものをいやというほど知っている。自分のような者を再生産することだけは避けなければならず、すべての学生に自分を乗り越えて行ってもらい(実は既に多くはそれを済ませているのであるが)、自分より少しでもましな人間になってもらいたいとも思っている。洗脳やクローニングをしているのでない限り、そうでなければ教育というものの意味はない。すると自分のような者が教える立場に立たぬことこそよりよい教育になるという話になってしまうのだ。
 教えなければならない。しかし教えてはならない。
 これが難しいのである。

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