2009年3月31日火曜日

出発点

少年は街を出る
 偶然見つけた。1971年作品。まさかYouTubeにあるとは思わなかった。14、5歳だった僕はレコード盤が擦り切れるほどこの曲を繰り返し聴いていた。38年ぶりに聴くこの素朴この上ない曲がずっと今に至るまで私の内奥に響き続けていたことをきょう確認できた。
 それから映画『パピヨン』。1973年作品。精神の自由というものは命を賭けるに値するものだという信念は高校生でこの映画を初めて見た時ナイーヴな形で僕の中に生まれたと言ってもいい。

J. Robert Lennon

 Five Cats and Three Women
 面白うて、やがて哀しき。。。
 人生なんてこんなもんなんだろう。
 あれよあれよと一気に読ませる。なかなか筆力のある作家だと思う。
 (リンクできないというご指摘をいただいた。使用条件が変わったようだ。ダウンロードしてあるのでご希望の方はファイルを差し上げる。)

2009年3月29日日曜日

信仰というもの

Rutjens, B. et al., "Things Will Get Better: The Anxiety-Buffering Qualities of Progressive Hope," Personality and Social Psychology Bulletin (forthcoming)の実験結果によれば、宗教心が弱い人ほど「進歩」「成長」への信仰を持ちやすいという。ひとは絶対神を持たずともいずれにしろ何らかの「信仰」を持ちやすいという風に考えることもできる。また、日本社会の人々の特徴とされることの多い諸属性――我慢強さ・勤勉・楽観主義など――を、彼らの間での絶対神への依存度の低さという角度から分析してみるのも面白いかもしれない。

抽象機械

”The abstract machines consist of unformed matters and informal functions.”(GILLES DELEUZE and FELIX GUATTARI,Concrete Rules and Abstract Machines

Kojeveの見た日本:Agambenの理解

During a trip to Japan in 1959, Kojeve had maintained the possibility of a posthistorical culture in which men, while abandoning their negating action in the strict sense, continue to separate forms from their contents not in order to actively transform these contents but to practice a kind of "pure snobbism" (tea ceremonies, etc.).(Homo Sacer)

愛。Theodor Adorno.

 アドルノがどこかでこういう気の利いたことを言っているらしい。彼らしくないと思うのは私だけか。
"Love is the power to see similarity in the dissimilar."
"Love you will find only where you may show yourself weak without provoking strength."

広島。長崎。

 1945.8.6.広島。
 1945.8.9.長崎。
 たった三日しか隔たっていない。その両方の町で被爆した人がいる。
A little deaf in one ear - meet the Japanese man who survived Hiroshima and Nagasaki

2009年3月28日土曜日

居場所

 僕はこれまでの人生において、大げさに言えば、僕にしかできないことしかやってこなかったと自負している。望まれていない所に所属したことは一度もないと自負している。お願いだからここにいさせて下さいと頼んだことは一度もないと自負している。
 いる場所も、する仕事も、付き合う人間も、すべて自分で決める。他の誰にも決めさせない。
 これまでの人生の上で多分最も大きな決断のときが迫っている。そして結論はもう出ている。

2009年3月27日金曜日

A Country Doctor

 私はKafkaの作品中に、子どものころからよく見てきた夢の数々のシーンおよびその類似物を見出して驚くことがある。この作品にもいくつかそういうものがあった。そしてそれは多分私だけのものではないのだろう。
 シュールリアリズム。実存主義。やはり私はその世代なのだ。
 A Country Doctor

2009年3月26日木曜日

нищо…

…и нищо по-бивше。。。それに、「前の」ものは何もない、

от бивши приятели「前の」友人たち以上に。

нищо何もない、

пó нищо. 「何もない」以上に。

(Георги ГОСПОДИНОВ, Балади и разпадиバラッドと崩壊

 нищо(nothing)とは何か。ГОСПОДИНОВのすばらしい作品に出会い、Heideggerを想起する。
”But even if we ignore the questionableness of the relation between negation and the nothing, how should we who are essentially finite make the whole of beings penetrable in themselves and especially for us? We can of course conjure up the whole of beings in an “idea,” then negate what we have imagined in our thought, and thus “think” it negated. In this way we do attain the formal concept of the imagined nothing but never the nothing itself. But the nothing is nothing, and, if the nothing represents total indistinguishability, no distinction can obtain between the imagined and the “genuine” nothing. And the “genuine" nothing itself — isn’t this that camouflaged but absurd concept of a nothing that is? For the last time now the objections of the intellect would call a halt to our search, whose legitimacy, however, can be demonstrated only on the basis of a fundamental experience of the nothing.” (What is Metaphysics?)

人権意識

http://adsoftheworld.com/media/print/duet_icecream_obama
 これはロシアのアイスクリームの広告だが、ここブルガリアでも時々唖然とすることがある。「人種」・「性」・「民族」・「宗教」・「エスニシティ」・・・。大学で教える者の中からでさえ、日本なら仲間から「終身刑」宣告を受けかねない言動がポンポン飛び出す。彼らはすぐに「文化の違い」を言い訳にするが、国連加盟国と言いたいなら世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)ぐらいは小学校で教えてほしいものだ。

ONE HUNDRED YEARS OF SOLITUDE

 少しずつ、少しずつ、大事に、大事に、読んできた。半年以上読み続けてきたことになる。
 そして今、読み終えた。
 読み終えた瞬間、「歴史」が終わった。これまでこの作品に魅せられてきた何百万という人々とともに、私は今限りない哀しみを覚えている。

2009年3月25日水曜日

Nietzscheの「力への意思」

「真理への意思」は取りも直さず「力への意思」である。なぜならば、the so-called drive for knowledge can be traced back to a drive to appropriate and conquer.

Theodor Adorno

"In the end, glorification of splendid underdogs is nothing other than glorification of the splendid system that makes them so."
 これはかなりの警句である。今の私にはとてもよく理解できる真理である。

自然と時間

Time After Time
 自然、時間、体内時計、近代、色々な問題を考えさせてくれて、面白かった。
 忙しい、大変だと言いいながらも5分10分どころか30分程度の単位の大雑把な切り取り方で生活している現在は、家の外で仕事をしている時間を除けば、私は概ね、食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、という生活リズムで生きている。日に2回軽食しかとらない日もあれば日に5回も6回も食べる日もあり、睡眠時間など、起きたくなったら起きる、という風だから、結局昨日は合計何時間寝たんだと聞かれてても答えられない日がほとんどだ。目覚ましも数日に一回程度しか設定しない。そんなに不規則な生活でどうするんですか、とよく注意されるが、それでもこの2年近く1、2度風邪を引いた程度の健康な生活を続けている(つもりだ)。
 これですべての義務から解放された時、私の生活がどうなっていくのか。今からとても楽しみである。

2009年3月23日月曜日

真理とは何か。

"What, therefore, is truth? A mobile army of metaphors, metonymies, anthropomorphisms; . . . truths are illusions of which one has forgotten that they are illusions, . . . coins which have their obverse effaced and now are no longer of account as coins but merely as metal." (Nietzsche)

同等でないものを同等化すること

Every idea originates through equating the unequal.とNietzscheは言う。彼は修辞的行為に関してそう言ったのだが、しかしそれは多くのことに当てはまるだろう。おそらく。

法の純粋形式

A pure form of law is only the empty form of relation. Yet the empty form of relation is no longer a law but a zone of indistinguishability between law and life, which is to say, a state of exception.(Georgio Agamben, Homo Sacer)
 言語と付き合っている者には容易に頷けるテーゼであろう。

Theodor Adorno

Freedom would be not to choose between black and white but to abjure such prescribed choices.
 私の好きな彼の言葉の一つ。

2009年3月22日日曜日

京都教育大学日本言語文化専攻のみなさんへ

 卒業する諸君、おめでとう。たくさん来てくれたという既卒生の諸君、ありがとう。浜田先生、ご苦労様でした。
 今夜の追いコンはさぞや盛大なものだったことでしょう。参加できなくて私もとても残念でしたが、いつかまた盛大に同窓会をしようね。

きょうのLiaison

布を楽しみ、アジアに親しむ

2009年3月20日金曜日

ソフィア大学日本専攻の学生たち

 現在彼らはすばらしい成功を収めつつある。どういう意味かは分かる人には分かるだろう。彼ら自身の日頃の努力は言うまでもないが、それに加えて、特に、いや唯一賞賛されるべきは、外からはまったく見えないところで、縁の下の力持ちとして、彼らをずっと支え続けてきたすばらしい先輩たちの献身である。
 頭が下がると言うほかない。脱帽である。

2009年3月19日木曜日

parallax

 柄谷行人のTrancritiqueを読んでいてこの語に行き当たった。
 「観察者の位置変化に応じて観察対象が見かけ上の位置を変えること」というような意味なのだが、ブルガリアに来てから私は自身と世界との関係がこれまでとは全くと言っていいほど変わってしまったことに思いが至る。位置変化を起こしているのは対象だけではない、何よりも私自身の位置が転換してしまっている。時折それに思い当たり、呆然とすることもある。たった2年足らず前のことなのに、その頃の私がどうやって日々を送っていたのか、ぼんやりとなら可能だが確たる感触をもっては思い出すことができない。そのことが実に不思議だ。

勝ち負け

 Fredric Jamesonは漱石の『明暗』における饒舌な会話の連続の中に潜む「勝ち負け」のような捉え方の存在に注目している(Soseki and Western Modernism)。
 しかし、これは漱石やこの作品の特色というよりはむしろ日本語話者の意識の底に特徴的に潜む捉え方ではないだろうか。「勝ち負け」や「損得」、或いは報われたか否か、というような視点から学生に説明すると分かってもらえやすい表現が日本語には特に数多く存在するのではないかと私は以前から感じている。
 まだ思いつきの域を出ない。もう少し考えてゆきたい。

と思ったら。。。

からりと晴れてぽかぽか陽気に変わった。
ブルガリアでは「女心と秋の空」ならぬ「女心と3月の空」という。なるほど。。。

2009年3月18日水曜日

予報通りの

猛吹雪がやってきた。
窓の外を地面とほぼ平行の角度で大粒のいかにも硬そうな無数の雪つぶてが飛ぶ。
春を待ちわびる思いは昨冬以上に強い。

Before the Law

Before the Law
 震撼させられるのは一人Agambenだけではない。Kafka恐るべし...

まことに申し訳ございません。。。

Bikinis Make Men See Women as Objects, Scans Confirm
 私の遺伝子に成り代わりまして深くお詫び申し上げます。

村上春樹

 Murakami defies protests to accept Jerusalem prize
 彼の受賞スピーチは正しいことを言っていると思う。それは私の政治的姿勢とも彼の文学を評価していないこととも全く異なる次元の話だ。

古代ローマ帝国のユーモア

 最近発見された紀元3、4世紀頃出版のジョーク集より。
1.
教授と床屋が一緒に旅をした。荷物の番を交代でやることにして寝た。床屋の番の時、彼は退屈のあまり寝ている教授の頭を面白がって剃ってしまった。自分の起きる番になって起こされた教授は自分の頭を撫でてかんかんに起こり出した。
「何て馬鹿な床屋だ。私の代わりに禿げた男を起こしてしまうとは!」
2.
A:あれ?!Cからは君はもう死んだと聞いていたのに!
B:そうですか。でも私はこの通りぴんぴんしていますよ。
A:。。。これは困った。。。どう考えれば良いのだろう。Cは君なんぞより遥かに信頼できる友だ。どっちを信じればいいのだろう。。。

 この高度な哲学。
 私が古代ローマ帝国に関心を抱き続ける理由がお分かりいただけましたでしょうか。

Roland Barthes

 The Private Barthes
 死後30年。最近出版された2作品が論議を呼んでいるようだ。出版する価値があるものだったかどうかは見方が分かれるようだが、歴史に残る哲学者の書き残した文章の話だし、彼ほどの人物ならば公開を意図していない文章ならわざわざ整理して保存はしておかなかっただろうと思う。
 英訳が出れば私も読んでみたい。

2009年3月17日火曜日

きょうのLiaison

Liaisonで着付け教室。
『ふふふの日、ふふふな時間』報告
中国のフォークアート=農民画セミナーat Liaison終わりました。
3月11日の毎日新聞朝刊に農民画展の記事が。。
『中国のフォークアート=農民画展』始まります。

風邪

 この冬一度も風邪を引かなかった。氷点下20度も耐え抜いた。ロシアにガスを止められても生き延びた。それが密かに私の誇りとするところだった。
 それが、昨夜ブカレスト出張から戻り、いきなり発熱した。きょうは一日中ベッドである。読書三昧とはいうものの、体力を失っているのだから長続きしない。うとうと、とろとろの繰り返しだ。情けない。
 これは断じて駒田聡ではない。一両日中に完全に治す。

2009年3月8日日曜日

the inverted world

 ハイデガーによるとヘーゲルは哲学は「転倒された世界だ」と言っているらしい(What is Metaphysics?)。出典未詳なのでヘーゲルの言わんとするところが私にまだ明確になっているわけではないが、私がいつも深く考えもせず濫用している「どこまでも掘り返せ」という常套句を内省してみると、ひょっとしたら私にも新たな視点をもたらしてくれる鍵なのかもしれないと思う。
 掘り返して行ってどこまでも深く進もうとするとき、その深みから地上のほうを見返せば、それは地上を折り返し線としたシンメトリーな図になるのかもしれない。

bricoleur

 今年100歳になったLévi-Straussから若い頃の僕が学んだものは前に触れた「構造」の概念だけではない。このbricoleurということばもそうだった。文化人類学者はエンジニアではなくbricoleurだと彼が書いているのを読んだ時、若い頃の僕は、文化人類学者だけではない、教師もそうだ、と思った。それ以来その信念は変わらない。Derridaからそもそもエンジニア自体が理論的にあり得ないと教えられたのはかなりあとで、教室で「遊び」始めたのもその頃からだ。

Laura van den Berg

Up High in the Air
 一気に読んだ。よく書けている。

日本人というもの

 現任の在ブルガリア領事が近く離任する。
 私は在外公館というものに対して30年間否定的な評価を下してきた。それがこの年になって初めて彼らと一緒に仕事をするようになり、認識を大きく改めた。これまでこのブログで日本人というものを褒めたことが何回かあったが、それらはすべて大使館の第一線で仕事をしている少数の人たちを念頭に置いたものだった。その少数の人たちの一人が現領事であった。
 俺が俺がとでしゃばらず(これがまた多い。。。)、プロ中のプロ(これがまた少ない。。。)としてのプライドを胸に秘め、ただひたすら職務に励み納税者/国民に奉仕する。この公務員として当然の義務を粛々と、完璧に遂行する人だった。このような人が土台をきちんと支えている限り日本という国はおいそれとは壊れない、そういう信頼を与えくれる人だった。日本人というものがあるとすれば、それが持つ美点を体現するような人物でもあった。
 これはセンチメンタリズムではない。個人的な付き合いは一切なかった。厳しい環境に置かれると、人は生物としての本能からか、単なる表面上の交際(厳しい環境下ではこれは尚更無意味なものとなる)でなく真に信頼し得る人をのみ求めるようになる。友人でなくともよい。そういう人が近くに存在するというだけで勇気づけられる。ブルガリアに暮らし始めて1年半になるが私はまだそういう人をごく少数しか見出していない。
 彼の次の活躍の舞台(実はこういう浮ついたことばほど彼に似つかわしくないことばもないのだが)での更なる成功を祈念しつつ、はなむけのことばとする。

2009年3月6日金曜日

おめでた。

Теневиんちで男の子誕生!母子ともに順調だそうです。

カフカ「審判」

"No one else could enter here, since this door was destined for you alone. Now I will go and shut it."(Franz Kafka,Der Prozeß,1925)

"If it is true the door's very openness constituted, as we saw, the invisible power and specific "force" of the Law, then we can imagine that all the behavior of the man from the country is nothing other than a complicated and patient strategy to have the door closed in order to interrupt the Law's being in force. And in the end, the man succeeds in his endeavor, since he succeeds in having the door of the Law closed forever (it was, after all, open "only for him"), even ifhe may have risked his life in the process (the story does not say that he is actually dead but only that he is "close to the end").(Giorgio Agamben, Homo Sacer, 1995)

 扉が「開かれている」ことそのものが法の不可視の権力および特別の「力」を構成するのであれば、外部者はその発効を阻止するために逆にその扉を閉じられたままにしておくことだ。そうすることによってのみその外部者は扉の内側に入ることができる。今の私にはとてもよく分かる命題だ。

「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」

Kulturkritik findet sich der letzten Stufe der Dialektik von Kultur und Barbarei gegenüber: nach Auschwitz ein Gedicht zu schreiben, ist barbarisch, und das frißt auch die Erkenntnis an, die ausspricht, warum es unmöglich ward, heute Gedichte zu schreiben.(Theodor Adorno, Kulturkritik und Gesellschaft
以来ずっと世界中の人々の耳元で囁きをやめないことば。それを理解しよう努め続けていることば。

構造的決定

Beauty Affects Men's and Women's Brains Differently
 最近遺伝子研究を含む、このように構造的な理解を促進するような研究を目にすることが多くなったような気がする。
 教条主義的な決定論に陥る必要はない/ってはいけない――これはいくら強調してもし過ぎることはない重要な条件である――が、様々な面における構造的因子が明らかになってきて、なぜあの人はああなんだろうと途方にくれる状態に陥ることが少しでも減ってくることにつながるのならば、個人のレベルでは精神的には助かることになるだろう、お互いに。

中央集権問題

Grass-Roots Uprising Against River Dam Challenges Tokyo
 地方分権が言われて久しい。今回の出来事も他の要素がかなり絡み合っている節がある。そこまで分析のメスが入っていない。この程度の調査では何も分からない。

2009年3月1日日曜日

Честита Баба Марта!

 手作りのマルテニツァを贈ろう!
 でもねえ。みんながмартеницаの手作りを始めちゃったら、毎日この寒空の下一日中道端に立ち通しでмартеницаを売っているあのおばあちゃんたちがかわいそうじゃないの?とすぐ考えてしまう私はとってもブルガリア人ではないかしら?