2009年11月22日日曜日

“inappropriate” と “unacceptable”

Words that think for us
 短い記事だが、鋭い指摘である。最後の結論はあまりにもおめでたいものでがっかりしたが。
 筆者は、“improper” や “indecent”で形容されていた事態が、現在では“inappropriate” や “unacceptable”で表現されることが多くなっており、その傾向は1980年代のpolitical correctnessの決まり文句あたりから顕著になったと見ている。
 しかし、根源にあるのはそんな表層の問題ではないような気がする。筆者がそれをモラルの言葉の衰退と関連付けていることからも分かるように、これは大きな物語の崩壊という文脈で考えたほうがいいのではないか。ここでいう大きな物語とは、広い意味で「正しさ」と言い換えてよい。何を正しいと考えるのが「正しい」のか、何を美しいと感じるのが「正しい」のか、何を善いものと判断するのが「正しい」のか、である。とすると、これはポストモダンであるということになる。
 私は少し前から、なぜ現代日本がこんなに軽々とポストモダンの流れの中を漂い続けるのかを考えている。それが、“inappropriate” や “unacceptable”で表されるものと同型だと思われる「世間」の問題(その最新ヴァージョンは「KY」だろう)なのか、「許せない」で表現されるような独我論の問題なのかを考えている。しかし、最近考えているのは、「世間」の話も「許せない」の話も恐らく共に独我論の問題なのではないか、ということだ。「他者」がまったく存在しない、という意味の独我論である。
 12月の「日本に関する懇談会」のテーマは「いじめ」である。そこに向けて、この角度からもう少し考えを進めていってみようと考えている。

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