2018年7月17日火曜日

渇望

私の場合を考えた。
中学生の時だった。私は外国の思想・芸術(特にクラシック音楽と西洋絵画)と後にはキリスト教に関心を持ち、憧れ、好きになろうと努めた。
その年齢の私自身、周囲の大人たち、また広く日本社会に対する失望から抜け出し、未来の自分を築いてゆくためには、(当時明確に言語化できていたわけではないが)「普遍性」の世界の中に生きなければならないというようなことを感じていた。そして当時の私は漠然と「普遍」への鍵はそれらの物事であるように感じていた。
「外国の思想・芸術、特にクラシック音楽とキリスト教」というのは端的には「ヨーロッパ」ということだろう。
現在私はヨーロッパの片隅に住み、宗教は別として、45年ほど前に私が思い描いた「未来の私」にかなり近い状態にある。そして、依然としてそれ以上のレベルの価値あるものを見出していない。付け加えるとすれば、そこにヨーロッパ思想・芸術と日本思想史・日本文学・日本画などとを比較対照する視点ぐらいだろう。
確かに、それらは長い過程において私が自分で選び取ってきたものだ。そして、それは中学生当時の私の言葉で言えば「なりたい自分」というようなものを追い求めてきた歴史の結果なのだろう。
私はこのままでよいのか。私にはまだ「なりたい自分」というものはあるのか。どうやらそのような感じがしなくもない。しかし、それはまだ何ら具体的な形をとっていないのも事実である。

Desiring to desire

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