2010年2月9日火曜日

決定不可能性という問題

 ある者のことばにどのような意味・意図が含まれているかを決定することは100%聞き手/読み手に委ねられている。ことばを発した者が、いやそういうつもりで言った/書いたのではない、と主張しても無駄である。最終的にその意味・意図を決定するのは原理的に受け手の側である。
 誰を信頼・信用するかに関しても、同様の問題がつきまとう。なぜ私でなくあいつのことばを信用するのだ、と腹を立てても、傷ついたとしても、それは詮方ないことである。それは、私があいつほど信用されていない、という端的な事実を表しているに過ぎない。
 価格は、売り手ではなく、買い手が決定するのだ。
 しかし、じつは、問題はそれでは終わらない。
 誰のことばを信用するかが徹頭徹尾聞き手の判断に委ねられているという事実は、逆に聞き手の側に関して言えば、誰のことばを信用するかによって聞き手の利益・不利益が左右される、ということでもある。
 私が誰かのことばを信じて、結果として裏切られたとしても、また自分のことばを信じてくれないからと誰かが私を見限ったとしても、それはすべて私の責任なのである。

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