2010年2月23日火曜日

中島敦「名人傳」

飛衞は新入の紀昌に命ずる。「先づ瞬きせざることを學べ」。紀昌がそれを会得すると今度は「瞬かざるのみでは未だ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを學べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微を見ること著の如くなつたならば、來つて我に告げるがよい」と。それをも会得した紀昌は、初めて飛衞から射術の奧儀秘傳を学ぶ。
ここまでは、「射抜く」ためには「見抜」かなければならぬ、ということだ。何かを「為す」ためには徹底的に視なければならぬ、ということだ。
次に飛衞と紀昌が闘う。勝負はつかない。これは何かを「為す」ということでは、ある次元を超え出ることは永久にできぬことを意味する。
甘蠅は全く異なる次元の人である。「羊のような柔和な目をした、しかし酷くよぼよぼの爺さんである。年齡は百歳をも超えてゐよう。腰の曲つてゐるせゐもあつて、白髯は歩く時も地に曳きずつてゐる。」しかし、弓矢を用いずに鳶を落とす。「弓? と老人は笑ふ。弓矢の要る中はまだ射之射ぢや。不射之射には、烏漆の弓も肅愼の矢もいらぬ。」
何事かを為すということに必要な何物か、というものがこの場合は弓矢だとすれば、何事かを為すということ自体の地平がここで崩される。
甘蠅のもとで9年を送り山を降りてきた紀昌はもう二度と弓矢を取ることはない。何かを射るということを一切しない。つまり、何も為さない。
至爲は爲す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし。

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