2018年8月31日金曜日

三島由紀夫「潮騒」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫潮騒抜粋分析完了。

「噂の女」溝口健二(1954)

作品というものは常にその作家の最高作品を基準として評価されてしまう宿命にある。それがたとえ二流作家の最高作品よりも優れたものであったとしてもだ。
溝口は同じ年に「山椒大夫」、前年には「雨月物語」を発表している。それらと比べるとこの作品は数段見劣りがする。田中絹代のいつもながらの名演がひとりすべてを支えているような感がある。

「噂の女」

2018年8月30日木曜日

「からみ合い」小林正樹(1962)

日本版フィルム・ノワール。豪華キャストであるにもかかわらず、小林独特の重厚な撮り方と武満徹の音楽が印象に残る程度の作品。

「からみ合い」

Francis Fukuyama

彼のこれまでの議論の中には、どうしても同意できないという時期(特に”The End of History?”を展開していた頃)もあった。
しかし、いずれにせよ、今はこのインタビューにみられる彼の柔軟性及び率直さに好感を抱く。

What Follows the End of History? Identity Politics

2018年8月28日火曜日

「稲妻」成瀬巳喜男(1952)

当時はテレビドラマというものがなかったので、その程度のものもみな映画館まで出かけていっていちいち金を払って見なければならなかったということだ。
最後の数分、世田谷での高峰・浦辺の演技が辛うじて救い。

「稲妻」

森鷗外「魚玄機」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外魚玄機冒頭部分析完了。

2018年8月27日月曜日

「有りがたうさん」清水宏(1936)

初期日本映画のロードムービーの秀作だと思う。この作品も監督ももっと評価されていい。キャストでは何といっても桑野通子が傑出して素晴らしい。

「有りがたうさん」

2018年8月26日日曜日

谷崎潤一郎「盲目物語」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎盲目物語冒頭部分析完了。

PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul

what is damaged and wounding and reactionary in him is essential, a critical part of the work, not something ancillary or disfiguring.
 極めて秀逸な往復書簡である。

PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL  The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul

2018年8月25日土曜日

「上海」「南京」1938

資料的価値しか認められない作品。
その後、米国相手の本物の戦争になってくると、こんな能天気な長編プロパガンダ映画を作る余裕はなくなっただろう。少なくとも私は見たことがない。

「上海」「南京」1938

ジョン・ロールズ

私の専門外なので精緻な議論はできない。しかし彼の言う「無知のヴェール」というツールが若い頃の私の目を開かせてくれたことを思い出した。

John Rawls, Socialist?

2018年8月24日金曜日

芥川龍之介「歯車」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介歯車冒頭部分析完了。

歴史を学ぶこと

現在にも未来にも過去が胚胎している。現在も過去の集積が作り上げてきたものであるし、未来もまたそうある。歴史を学び歴史から学ぶことをやめた時、すべてが終わる。

The Case for Applied History

2018年8月23日木曜日

「煙突の見える場所」五所平之助(1953)

椎名麟三の原作を読んでいないのでどこからどこまでが五所のオリジナルなのかは定かではないが、まず印象に残るのは「明るさ」である。悲しく、みじめで、なさけない人物やエピソードが次から次へと出てくる筋立てであるにもかかわらず、一種のコミカルで前向きな雰囲気が全編を貫く。それには、音楽をはじめとする種々の「音」の効果的な使い方、脇役陣の一人ひとりまで選び抜かれたキャストの演技力、片足を引きずりながら土手を歩く女たち(すれ違う跛行の女も含む)をはじめとする印象的なシーンの数々、など様々な要素が複合的に貢献している。そして、もくもくと煙を上げ続ける煙突、赤ん坊、前向きに生きる二人の男女、などの、未来や生産を象徴する要素がちりばめられていること、そして何よりも敗戦から立ち直り日本再生へと離陸する直前の日本社会全体に胚胎していたエネルギーのようなものがその明るさを生み出しているのだろう。
この年は「東京物語」「雨月物語」という世界映画史上に残る名作も出ている。それと同時にこのような作品も生み出すことのできる五所のような監督も活躍した、やはりこの時代は日本映画の黄金時代だったのだ。

2018年8月20日月曜日

「乳房よ永遠なれ」田中絹代(1955)

田中絹代監督第3作。男性優位の映画界において一人怒号する田中。
北海道の明るい陽光、鏡の多用、天国への門としての霊安室、など印象に残るシーンを数多く持つにも拘らず、作品全体としてみた時の完成度が今一つ物足りなく感じられるのはなぜだろう。監督というのは難しい仕事だ。

「乳房よ永遠なれ」

2018年8月18日土曜日

「我が家は樂し」中村登(1951)

予定調和的なホームドラマ、と一言でいうのは易しいが、敗戦の痛手から未だ立ち直っていない当時の多くの日本の人々の心を温めた作品であろうことは想像に難くない。笠、高峰もさることながら、何といっても山田五十鈴の存在感が圧倒的である。

「我が家は樂し」

森鷗外「護持院原の敵討」

”a whole civilization”

一つの全体としての文明。文明としての一つの全体性。言うまでもなくそれは幻想である。しかしナイポールだけではない。程度の差こそあれ、原理的には文学も、そしてことばそのものも、そこに立脚する。私の辞典も同様だ。

V.S. Naipaul, Poet of the Displaced

2018年8月17日金曜日

「歌麿をめぐる五人の女」溝口健二(1946)

綿密な時代考証と徹底したリアリズム、随所に光るカメラワーク。溝口らしさのよく出た作品。役者に関しては、小津にとっての原(それから笠)と同様、溝口にとっても田中絹代(この作品でも息をのむ名演を見せる)のような傑出した存在が一人いれば十分なのであって、残りはすべて監督の映画芸術の中に呑み込まれてしまう。程度の差こそあれ、一流の監督というものにはそういう面がある。

「歌麿をめぐる五人の女」

谷崎潤一郎「卍」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎冒頭部分析完了。

2018年8月16日木曜日

言語帝国主義

翻って日本ではどうか。帝国支配期の台湾・朝鮮・南洋諸島における言語政策、またアイヌ語・琉球語をはじめとする被支配言語に対する政策。それらに関する研究が今一つ力強さに欠ける原因の一つは「当事者性」なのかも知れない。少数者の側からのより力強い異議申し立てが起こってくるためには、いかなることが必要なのだろうか。

Ngũgĩ wa Thiong’o and the Tyranny of Language

2018年8月15日水曜日

「新・平家物語」溝口健二(1955)

溝口初のカラー作品。宮川一夫はじめ一流のスタッフをそろえた作品にしては、作品としての印象が薄い。ただ、長回しのカメラワークは魅力的。

新・平家物語

芥川龍之介「南京の基督」

Donald Hall

米寿と卒寿の間でこういう文を綴ることができる。詩人とはすばらしい職業である。

Notes Nearing Ninety: Learning to Write Less

2018年8月14日火曜日

2018年8月12日日曜日

「人類学入門」今村昌平(1966)

細切れで全編を通しで見たわけではないので、全体評は控える。
「にっぽん昆虫記」ほどの衝撃はなかったが、今村ならではの魅力がある。
「うなぎ」のうなぎは、ここではフナ。坂本・小沢の名演と共に姫田真佐久のカメラが秀逸。

「人類学入門」

快楽

中身は当たり前のことばかり言っているような気もするが、タイトルがいい。「良書を読むことの快楽主義。」良書を読むことの意味は、自己の成長などよりも、教養の獲得などよりも、まず何よりも快楽なのだ。これは書物に限らない。音楽、美術、あらゆる芸術に当てはまることだ。この快楽を他者に勧める必要はない。自分だけで楽しめばよい。時代の風雪に耐えた古典の快楽を知らぬ者のことなど知ったことではない。

The Hedonism of Reading Good Books

泉鏡花「高野聖」

Agora日本語読解辞典』において、泉鏡花高野聖冒頭部分析完了。

2018年8月11日土曜日

「山椒大夫」溝口健二(1954)

言わずと知れた溝口の代表作の一つ。撮影宮川一夫。エンディングの海のシーンは後にゴダールが溝口へのオマージュとして「気狂いピエロ」で用いている。

「山椒大夫」

Promotional Intellectual

いずこも同じか。まだ米国や英国ほどではないにせよ、日本もその道を辿り始めているように見える。
しかしながら、ナイーブな議論をさせてもらえば、学問と永遠性は不離一体のもののはずだ。市場経済化の波に乗ろうが乗るまいが20年や30年の短期間に時代の寵児となったとしても1000年後には誰にも顧みられぬものになっていたとしたならば、それは無価値の学問だったということだ。知の永遠性を希求しようとしないものは、学者であれ大学であれ社会であれ、そんなものは消え去ってしまっても人類史的には一向に構わないではないか。

The Rise of the Promotional Intellectual

「元禄忠臣蔵」溝口健二(1941・1942)

いくつかの特徴がある。
1.歌舞伎役者を多数用い、伝統的様式美を重視したこと。
2.開戦直後の作品で、戦争賛美・忠君愛国のイデオロギーが散見されること。
3.ワンシーン・ワンカットの実験的手法が用いられていること。
4.討ち入りシーンがないこと。
全体として、溝口の様式美がよく出た佳品だと言える。

元禄忠臣蔵

2018年8月10日金曜日

デカルト

ルネ・デカルト。近代知の形成にこれほどの役割を果たしながら、またこれほど謎の多い人物もいない。

Flesh-and-blood Descartes

夏目漱石「彼岸過迄」

Agora日本語読解辞典』において、夏目漱石彼岸過迄冒頭部分析完了。

2018年8月8日水曜日

「にっぽん昆虫記」今村昌平(1963)

人はすべて虫である。随所に挿入されるストップモーションと短歌(らしきもの)がアクセントになっているだけの延々と続く昆虫観察のリアリズム。小津の代わりが居らぬように、やはり今村の代わりはいない。

「にっぽん昆虫記」

2018年8月6日月曜日

「蛍川」須川栄三(1987)

三國、大滝、殿山。日本映画の黄金時代の最後の生き残りの男優たちの演技が光る一作。逆に言えば見どころはそれだけ。原作の魅力のおかげもあり何とか最後まで見せたが、最後の特殊効果に頼り過ぎ。アニメに堕して、すべてをぶち壊した。カメラも凡庸で、この監督は一体映画を何だと思っているのだろうと思う。

蛍川

好みの声で聞き取り練習?

日本語学習も楽しくなりそうだね。

声の「コピー」もアプリで簡単 広がる音声合成

森鷗外「最後の一句」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外最後の一句冒頭部分析完了。

2018年8月5日日曜日

「甘い罠」若松孝二(1963)

暴力とエロス。ただただひどい映画と切り捨てる向きも多いだろう。完全版が失われてしまったため最終的な評価は保留しなければならないが、キャストの貧相さを除けば、私はこの作品の過激さを評価する。この激しさはこの時代、世界においても突出していた。高度成長真っ只中の日本の闇の部分を描いたこのデビュー作を皮切りに、若松は世界の映画史の中で独自の世界を切り開いてゆくことになる。

「甘い罠」

谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」

2018年8月4日土曜日

「郷愁」岩間鶴夫(1952)

少し筋の運びに無理を感じる。それから歌謡曲を挿入したのは失敗だと思う。はやり歌を埋め込んだ時点で映画はその時代だけの娯楽と自己限定してしまう結果となる。映画を芸術とは考えていないと宣言するならそれはそれで構わないが。
いくつかの名シーンもあっただけに、いずれにせよ凡庸な作品で終わったのは残念。

郷愁

2018年8月3日金曜日

芥川龍之介「煙草と悪魔」

A snapshot of life in Tokyo???

こういうのを手抜きというのか文化的帝国主義と呼ぶべきなのか。
東京に住む大多数は英語を話さない人々だ。その人たちにろくに話しかけもせずに”A snapshot of life in Tokyo”と銘打つ無知と傲慢。

A snapshot of life in Tokyo

「細雪」阿部豊(1950)

2時間半近くの長編だが、原作が谷崎自身も認める通りやや冗長なものだったから仕方がないだろう。
文化史的な面白さは多分にあるが、芸術としては陳腐のそしりを免れないだろう作品。

細雪

2018年8月2日木曜日

九鬼周造「『いき』の構造」序

醜いという事

この記事を読んで今も鮮明な記憶となっている或る出来事を思い出した。
25歳の時だったと思う、米国の或る大手出版社のエッセイコンテストに入賞して米国に招待された。社長に招待されNY郊外の広大な森の中にある豪壮な本社社屋に連れていかれた。社長のことは全く記憶にないが、その社屋の中の社長室に向かう廊下に超一流の絵画が多数掲げられていたことをよく覚えている。その中にゴーギャンのタヒチ時代の作品が何点かあった。それらに見入っていたら、私たちの案内を担当していた女性社員が突然私に「こんな醜い絵のどこがいいのか?」と質問してきた。私は色彩だと短く答えただけだったが、二つの意味で衝撃を受けていた。まず、ゴーギャン(もしくはそこに描かれたタヒチの女性たち)を「醜い」と一言で切り捨てる人間が、それも米国の一流出版社の社員の中に存在すること。さらに受賞者である初対面の外国人のゲストに向かってそのような素朴、或いは傲慢な疑問を微笑みながら投げかけたこと。彼女がそこまで知っていたかどうかは定かではないが確かにゴーギャン自身の人生は決して褒められたものではないしタヒチ時代の言動は「醜い」としか言いようがない。しかし、芸術としてあの作品群の色彩の美しさは否定しようがない。しかし、以来今日まであの出来事は折に触れ私を立ち止まらせ様々なことを考えるきっかけを与えてきたことは間違いない。
「美」とは何か。「醜」とは何か。この記事が論じる美術史におけるこの眼差しの系譜はあくまでも欧米(特に米国)におけるものである。東アジア、特に日本ではどうであったのだろうか。考えてみたくなった。

Ugliness Is Underrated: In Defense of Ugly Paintings

2018年8月1日水曜日

九鬼周造「『いき』の構造」

堅い本が売れている?

一見喜ばしいニュースだが、その背景にあるのは大統領からSNSまであらゆる偽物に満ち満ちた現在世界というわけで、手放しで喜ぶ話でもない。それに人間は馬鹿だから真面目な話はすぐに飽きてしまって、そのうちにまたセレブの自伝ばかり本屋に並ぶようになるよ。

How the ‘brainy’ book became a publishing phenomenon

「うなぎ」今村昌平(1997)

監督・脚本・カメラ・配役が完璧なら間違いのない作品が出来上がるという見本(ただしそのうちの一つでも欠ければ駄目になる)。何度も観た作品で今回こそとあらさがしを試みたが、やはりちょっと文句らしい文句のつけようがない。パルム・ドールにふさわしい名作。同時受賞が「桜桃の味」。この年は当たり年だったということだ。

「うなぎ」