2018年8月2日木曜日

醜いという事

この記事を読んで今も鮮明な記憶となっている或る出来事を思い出した。
25歳の時だったと思う、米国の或る大手出版社のエッセイコンテストに入賞して米国に招待された。社長に招待されNY郊外の広大な森の中にある豪壮な本社社屋に連れていかれた。社長のことは全く記憶にないが、その社屋の中の社長室に向かう廊下に超一流の絵画が多数掲げられていたことをよく覚えている。その中にゴーギャンのタヒチ時代の作品が何点かあった。それらに見入っていたら、私たちの案内を担当していた女性社員が突然私に「こんな醜い絵のどこがいいのか?」と質問してきた。私は色彩だと短く答えただけだったが、二つの意味で衝撃を受けていた。まず、ゴーギャン(もしくはそこに描かれたタヒチの女性たち)を「醜い」と一言で切り捨てる人間が、それも米国の一流出版社の社員の中に存在すること。さらに受賞者である初対面の外国人のゲストに向かってそのような素朴、或いは傲慢な疑問を微笑みながら投げかけたこと。彼女がそこまで知っていたかどうかは定かではないが確かにゴーギャン自身の人生は決して褒められたものではないしタヒチ時代の言動は「醜い」としか言いようがない。しかし、芸術としてあの作品群の色彩の美しさは否定しようがない。しかし、以来今日まであの出来事は折に触れ私を立ち止まらせ様々なことを考えるきっかけを与えてきたことは間違いない。
「美」とは何か。「醜」とは何か。この記事が論じる美術史におけるこの眼差しの系譜はあくまでも欧米(特に米国)におけるものである。東アジア、特に日本ではどうであったのだろうか。考えてみたくなった。

Ugliness Is Underrated: In Defense of Ugly Paintings

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