2018年12月14日金曜日

藤田嗣治展

会期末ぎりぎりに行くことができた。「没後50年 藤田嗣治展」。
以前にもここに書いたが、彼の作品には多かれ少なかれ「哀しみ」がつきまとうものが多い。そのことの内実を今回は考えることができた。
感じたことを急いで書き留めるために今回は走り書きにとどめる。
女。猫。他者。無表情。静。理解不可能性。理解不能な他者への関心。自画像さえ例外ではない。彼にとっては自己も他者だ。
郷愁。日本。フランス。ルネサンス。神。手に入らぬもの・場所・時への郷愁。
上記の二つの側面はどうやら一つの絵の中には共存せぬもののように見える。それが最もよくわかるのは名作「カフェ」だ。フランスへの郷愁に満ちたこの作品の女性には珍しく「人間」がある。言い換えればこの作品の女性は「他者としての女性」ではなく、敢えて言えば藤田自身なのかもしれない。構図にしても色彩にしても、極めて工夫に富んだこの作品をゆっくりと間近に観ることができただけでもこの展覧会は大きな意味があった。
他者は理解不可能である。その他者へ関心を向けざるを得ないことの中にある哀しみ。
いくら望んでももはや二度と得られぬものがある。そこへの断ち難き郷愁の中にある哀しみ。
いずれにしても、到達不可能な対象への愛と執着。到達不可能ゆえの哀しみ。それがダ・ヴィンチにもピカソにもなれなかった藤田の中に漂う哀しみではなかったか。

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