2008年5月29日木曜日

日本語中級読解問題

次の文章を読んで、論理的に問題のある箇所の中から一つ選んで論じた上で、文章全体の論理の稚拙さを証明しなさい。
【主張】クラスター爆弾 日本の安全が損なわれる

2008年5月25日日曜日

ご無沙汰

 数日ブログ更新をしていなかったので、各方面に色々心配をかけていたようだ。すみません。
 PCの調子が悪く、インターネットもWordもうまく動かない状態が続いていて、しかたなくもう一台のほうでせっせと文書データの整理(哲学・文学・芸術等のhumanities以外の領域の文書の大量廃棄)をしていて、何も読みもしなければ考えもしていなかったものだから。ブログのネタもなかったのである。
 仕事も生活もおかげさまですこぶる順調である。ご安心ください。PCが生き返ったら、またたくさん書きます。

2008年5月20日火曜日

銀河の宝石箱

(Click the pic. to enlarge)
The Perseus Cluster of Galaxies
Credit & Copyright: Jean-Charles Cuillandre (CFHT) & Giovanni Anselmi (Coelum Astronomia), Hawaiian Starlight
 色とりどりに煌いているものがそれぞれ独立した銀河だそうです。いかなる宝石箱よりも美しいと思いませんか。

2008年5月18日日曜日

Julian Barnes

East Wind
余情豊かな好短編。

クラスター爆弾廃絶へ向けて

 明日はダブリン会議である。
 クラスター爆弾廃絶への動きはここ1、2年急速に高まってきた。きっかけは、
ヴェトナム戦争期に製造された400万トンをイスラエルが2006年にレバノンに投下したことだ。DEFCのフィールドであるラオスでは1970年代にアメリカ軍がその65倍の2億6000万トンを投下した。
 クラスター爆弾不発弾による被害は、現在、地雷の約十分の一である。それが廃絶反対への口実になり得ないことは言うまでもないが、もう一つ大きな問題が先に横たわっている。従来から大量製造・保有してきた軍事大国が所有するクラスター爆弾が年月と共にかなり老朽化してきている。懸念されているのは、それらが世界中の紛争国に大量に叩き売りされることだ。
 今や人類最悪の非人道的兵器と呼ばれるクラスター爆弾の大量所有を誇る三大軍事大国(アメリカ合州国・ロシア・中国)が「人道的」な見地からまさか叩き売りまではしないだろう、というようなおめでたい期待をしている者はいない。
Treaty for cluster bombs expected during upcoming conference

ほくろ?シミ?そばかす?

 さっき朝寝から目が覚めたばかりの時ふと布団から出ている自分の腕を見てぎょっとした。いくつかのほくろと呼ぶのかシミと呼ぶのか、とにかくそういうものが目に入ったのである。普段しげしげと自分の身体なぞ見ないものだから、ずっと前からあったのかもしれないが、とにかくさっき気がついたというわけだ。
 その自分の腕を見ていると、死んだ父が晩年体中にその色素異常を見せていたことを思い出した。いわゆる「老人性色素班」というやつだろう。
 いよいよ私にも老いがひたひたと押し寄せてきたと見える。
 しかしあまり悪い気分でもない。「疾風怒濤」の日々にも疲れてきた。そろそろ枯れてみたくなってきたというのも正直なところである。

「言語ゲーム」

 Wittgensteinの苦悩の一端が最近わかってきたような気がする。頭では理解しているつもりでいたが、実際に身体で経験してみると、これは本当に大変である。

 「次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の 中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という 語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を 繰るのである。――「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い>という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をど うやって知るのだろうか。」――私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。――しかし「五つ」という語の意味は何なのか。――そういうことはここでは全く問題になっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。」(『哲学探究』)

 使いの者と商人とがそれぞれ持っている諸規則――「リンゴ」の意味規則、色見本、基数系列――が異なっている場合――そしてそれらが同じである場合は原理的には皆無であるはずである――、いったいどのように共通理解が成立するというのか。
 これが実際に二人が顔を付き合わせながら「リンゴ」「赤」「五つ」に関する互いの規則を参照・確認しながらのコミュニケーションならまだ救いはある。その場で訂正し、互いの規則を教えあい、また教え合うという行為の絶対的必要性を両者が常に確認しながら、意思疎通を図ることができるからだ。
 eメールやチャットなどの電子媒体は恐ろしい。書簡と比べ、一見、会話に近い媒体であるために、大きな誤解がその間にあることを双方が気づかず、スムーズにコミュニケーションが展開しているという誤った前提の下にやり取りが続き、最初の誤解が実は両者の関係にとって取り返しのつかぬ命取りにまで肥大してきているのに、最後の最後までどちらも気づかず、コミュニケーションが崩壊してしまう。幸運な場合にはのちに実際に会うことができて、それらの「誤解」を「まとめて」修正することができるかもしれない。しかしそうでない場合には、どの規則を共有していなかったのかということを最後までとうとうどちらも突き止めることができないまま、関係が破綻する危険がある。
 「母語」が「同一」の場合でもそうでない場合でも、原理的には問題の深刻さは同じはずである。しかしそれは「原理的には」であって、実際にそのディスコミュニケーションを「生きて」みると、その深刻さは比較にならない。
 破綻を避ける(ことができるかもしれない)手段はただ一つ、本当に大事なことは、きちんと互いに目を見つめながら話せるときにしか話さない、ということしかないようだ。

2008年5月17日土曜日

海音寺潮五郎『海と風と虹と』

 読み終えた。「大衆小説」だから期待値は低かったが、期待値通りの評価を下さざるを得ない。特に藤原純友の勢いが翳り始めたあたりからの展開が物足りない。

2008年5月16日金曜日

教員養成プログラム=diploma mill?

 NYTimesの社説が日本での議論と重なるところが多く、面白かった。Teach for America
 調査結果からは、乱暴に、二つの論点が取り出せる。
1.恒常的に進歩・変化の著しい自然科学系科目においては、若手のそれもエリート大学卒業生が「それほどでもない教師」よりも
教科内容をよく把握している可能性の有無
2.生徒たちとの年齢差が小さく、「新米の熱意」に溢れた若手教師のほうが「それほどでもない」教師たちよりも生徒たちを惹きつける可能性の有無

 乱暴な推測をすれば、この2点が相俟ってこのような結果が出たのではなかろうか。
 熱意と実力を兼ね備えていない者は教師をしてはいけない、という単純な、そして不都合な真実。いずこも同じ。

芥川龍之介「開化の殺人」

 傑作。やはり龍之介は恐ろしい男である。
 この遺書により、北畠義一郎は、満村と自己のみならず、本多をも明子をも「殺す」ことになる。

2008年5月15日木曜日

"Leaving Las Vegas"

 Mike Figgisの脚本を読み終えた。Benを演じたNicolas CageとSeraを演じたElizabeth Shueをイメージしながら読んできたのもよかったのかもしれない。
前にも書いたが、映画としてだけでなく、脚本としても、私はこの作品を愛する。

IMD The World Competitiveness Yearbook

 ブルガリアは近年好調を維持しており、とうとう39位まで上昇した。世界第2位の経済大国だと偉そうにしている日本も22位だ。ここまで来たら、もう早く日本を抜いてしまいましょう。

NGC3628銀河の「横顔」

(Click the pic. to enlarge)
Sideways Galaxy NGC 3628
Credit & Copyright: Keith Quattrocchi
 何だかおいしそうだと思いません?

2008年5月13日火曜日

芥川龍之介「不思議な島」

 底の浅い文学(文壇)風刺。

アインシュタインの宗教観

Childish superstition: Einstein's letter makes view of religion relatively clear

 僕のように宗教を持たない人間から見れば彼の言っている事はすこぶるまっとうな事であって不思議でも何でもなく、そもそも論争のある事自体が奇妙としか言いようがないのだが、それでも議論は喧しいようだ。

昨日の各社社説

朝日新聞:『ミャンマー―日本外交も説得に動け』『食糧輸出規制―最低限の歯止めがほしい』
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
東京新聞:『ヤフー買収断念 マイクロソフトの迷走』『猟銃所持 許可の厳格化は当然だ』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/
日経新聞:『さらに踏み込み環境立国の志を示せ』『資産圧縮を迫られたシティ』
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/
毎日新聞:『ゆうちょ銀行 住宅ローンで出過ぎるな』『クラスター爆弾 政治決断で禁止条約推進を』
http://mainichi.jp/select/opinion/index.html
読売新聞:『後期高齢者医療 実態調査と総点検を急げ』『命名権売却 幅広い合意の下で進めたい』
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/

 昨日の社説だから中国の大地震はまだ届いていない。それにしても、10本すべてが異なったテーマのものだと言ってよい。問題の数が多いと捉えるべきなのか、世界的に大きな問題が各社で共有されていないと見るべきなのか、それともやはり日本は「平和な」国だと考えるべきなのか。

2008年5月12日月曜日

Sofia大学日本学専攻

 きょうZaxariがCDをくれた。そこには学生たちの写真や動画がたくさん入っていた。みんなの仲のよさが生き生きと伝わってくるすばらしいCDだった。昨日のBeniの誕生日パーティの写真もあり、僕の写ってるのも入れてくれていたし、さなも楽しそうにみんなとカメラにおさまっていた。
 仲よき事は美しき哉

ミャンマー被災者への食糧支援

国連世界食糧計画(WFP)が寄付の受け付けを開始した。オンラインでも各金融機関からでも寄付が可能である。

「批判的姿勢」

 もちろんこのレヴェルを要求するわけではないが、若い人には、世界のあらゆることに向き合う際、もう少し冷静に、知的に、ニセモノを見抜くだけの眼を持ってもらいたいと思う。
A Letter from Alexander to Aristotle?

2008年5月11日日曜日

聞こえる・聞こゆ

 折口信夫の「「琉球の宗教」の中の一つの正誤」の中に「聞得大君」という記述があった。これは「きこえおほぎみ」と読む。
 「見ゆ」「聞こゆ」「思ほゆ」などの「ゆ」は「得」から来たのだろうか。もちろんこれは単なる思いつきに過ぎず、90%の確率で誤ったものだという予感はするが、しかしそれを確認する術もここにはない。誰かに教えてもらわないといけない。

Jillian Tamaki

Remembering Nana on Mother’s Day
 多元的・多層的な「文化」の豊かな可能性を感じさせるよいイラストレーターだと思う。Jillian Tamaki Illustration

2008年5月10日土曜日

勉強の日

 「日本語研究会」「日本思想史読書会」あわせて5時間。参加者の皆さん、お疲れ様でした。でも今日もとても刺激的な日でした、

2008年5月9日金曜日

龍之介の歌

「やはらかく深紫の天鵞絨をなづる心地か春の暮れゆく
「初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな」
「しぐれふる町を幽けみここにして海彼の本をめでにけるかも」

 白秋から勇、そしてアララギへ。天才龍之介は学習の名人でもあった。
 学習の名人はすべてを吸収しようとし、またできてしまうために、かえってその限界が早く訪れる。そして自己破壊を起こす。そういうことなのかもしれない。
(参考:
吉野裕之芥川龍之介の俳句と短歌」)

2008年5月8日木曜日

夏目漱石「それから」

 突然登場する、代助の姿を借りた漱石の文明批評。
「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なつてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有の儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――」

韓寒

 いつも鋭くかつ温かい中国観を提示し続けているふるまいよしこ氏のメルマガで知ったのだが、この80年代生まれの作家はなかなか骨のある人物らしい。彼女の文章を引用すると、彼はブログで、
 「愛国者たちが憤激したときに良く使う『もし、外国人がお前を殴ったらどうする
?』『お前の母親が外国人にレイプされたらどうするつもりだ?』という言葉に対して、やんわりと『外国人はぼくを殴らない。ぼくの母親は外国人にレイプされていない。近代のオリンピックはフランス人のクールベルタンが提唱したものだ。オリンピックもボイコットすればいい』と答えている。」(ふるまいよしこ訳)そうだ。
 こういうまっとうな発言が中国語世界の外になかなか出ていかないのが現在の中国(だけでなく日本を含む、「弱者」の言語に共通の、であるが)の悲劇である。
 今から中国語を学ぶ暇は私にはないが、きちんとものが考えられる人物もたくさんいるはずだし外国語を使う中国人も数多いのだから、ウェブ上でもっともっと翻訳を出していってほしい。読んでみたいと思う人は多いはずである。

2008年5月7日水曜日

芥川龍之介「三右衛門の罪」

 三右衛門の息遣いまでが伝わってくる。すばらしい小品。面目躍如。

2008年5月6日火曜日

“enlightened self-interest”

Susan George, Examining relationships between European Union policies and migratory pressures
 正論であり、説得力のある議論を展開している。
 それにしても、
research directorateのレヴェルとはいえ、EUがSusan Georgeを呼ぶとは。ご本人も驚いたようだ。
 ヨーロッパの知的な伝統の奥深さと懐の深さを感じさせるエピソードである。世界の他のどの主権もここまでの度量を持たない。
 これからも当分の間はやはりEUが世界をリードしていくしかないだろう。

“The weak-minded choose to hate.”

Yiyun Li, A Man Like Him
 興味深い小品なのだが、各登場人物の心理のひだが見えそうで見えない。読み始めたときの期待がしぼんでしまったのが残念だ。

「島国根性」

 昨日書いた日本の閉鎖性は、最も動きの早い経済の領域で最も顕著に出始めていることをNewsWeek誌が報じている。This Nation Is An Island
 大きな問題であることは事実である。ただ昨日書いたことを補足する意味も込めて言えば、10年や20年の短期的な視野で現象を見ることの限界も忘れてはならない。
 文化史・文明史的に見れば、日本列島に住む人々が「外部」との関係において真の意味で積極性を見せた時は皆無といってよい。侵略性を露にした時代は言うまでもなく、正の意味での対外交流であるように見える、唐との交渉も「文明開化」も敗戦後の「民主日本」建設も、徹底的に正面から向き合ったというよりは寧ろ表面的な文物の「導入」に留まった――或いは留めようとした――といったほうが正確であろう。
 あの列島に住む人は、幸か不幸か、「島国根性」でこれまで何とかやって来られたのである。
 しかし、グローバリゼーションは人類が初めて経験する段階に入った。
 このグローバリゼーションの徹底化の中で、その千数百年に及ぶ「島国根性」の歴史が果たして終わるのか、逆にそれが日本を衰退に追いやるのか、それともこれまで通り、「島国根性」を抱えたまま何とか乗り切ってしまうのか。
 興味深く観察させていただこう。

雨のSofia

 冬にも書いたが、雪や雨の日のSofiaは実に美しい。雨や雪が空気中の望ましくない物質を全て吸収して地上に降り立ってくれるため、特に春の雨は、首都としてはヨーロッパで最も緑地面積が広いというこの街の大木たちから発せられる緑と花の薫りで街をむせ返らせる。
 この豊かな緑をさらに活かすような都市計画と交通規制・排ガス対策を行えばSofiaは世界一の都になる可能性を秘めている。
 いずこも同じだが、行政の無能がすべてをぶち壊していることが残念である。

2008年5月5日月曜日

Martha C. Nussbaum

 相変わらず意気軒昂である。
 哲学者としての彼女は、とても厳しい人である。
Stages of Thought
 しかし、人間としての彼女は、人当たりのよい、とてもチャーミングな人である。

供給過剰商品

 今日の山崎元も面白い。経済評論家の不経済性
 マーケットを30年見続けてきた者から見れば、証券会社や銀行の20代や30代の若造が公定歩合がどうの為替がどうのと得意そうにペラペラしゃべっているのをかたはら痛く思うことがある。データは全て揃っているのだからそれを繫ぎあわせればそれぐらいの事は俺にだって言えるとこっちは思ってしまう。しかし、それらの青二才はともかく、やはり専門は専門で、山崎元や寺岡実郎などの書いているものを読むと、さすがに専門家だといつも感心させられる。
 供給過剰な(いや供給過剰だと誤解されている)のは経済評論家だけでなく、日本語教育もそうである。母語が日本語だから、日常的に日本語が話せるから、日本語が教えられる、日本語について論じることができると思い込んでいる人が後を絶たない。それは別に母語話者に限らない。日本語をマスターしたから日本語を教えられると思い込んでいる「元-学習者」たちも同罪である。大変な努力をして日本語のような訳の分からぬ言語をマスターしてきた人たちへの敬意においては人後に落ちないつもりだが、しかし、日本語を使えるということと日本語が教えられるということとは全く別世界の話だということが分かっていない。
 二足歩行できるからといって、歩行のメカニズムを正確に、しかも素人にも分かるように分かりやすく、解説できる人が殆どいないことを考えれば分かりそうなものだと思うのだが、これがなかなか分かってもらえない。
 「二足歩行」と「運動生理学」が全く別概念であることと同様に、「日本語」と「日本語教育」もまた全く別概念なのである。
 「日本語教育」というのは、教育内容が(「数学」や「運動生理学」と同次元に並ぶ)「日本語」であるところの「教育」という専門分野である。教育学を修めていない者に数学や運動生理学を教える資格がないのと同様、日本語を教える資格も(本来は)ないことを忘れてもらっては困る。
 えらそうな事を言っているこの私にも、実は教える資格がない。教育学を修めてもいないし、教員免許も持っていない。「日本語」という科目を30年、大学で20年、担当してきた、という歴史だけしかない。
 だから、私は日本語を「教えて」はいない。毎日教室で「遊んで」暮らしている。

 。。。しかしまあ、絵に描いたような見事な腰砕けの文章になった。

「子どもの日」

 日本の各紙では関連する社説が並んだ。
東京新聞「
『つながり』を知るため こどもの日に考える」
毎日新聞「こどもの日 大人はもっとお節介になろう」
読売新聞「こどもの日 目と目を合わせて話そう」
朝日新聞「こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに」

 それぞれアプローチは異なるが、共通する点が一つある。
 子どもたちが「こころ」を失いつつあるという主張である。ヴァーチャル世界の発展により子どもたちが「仮想世界」と「現実世界」とを区別できなくなっているという視点もそれに付随して共通している。
 しかし、少年期の「残酷性」は普遍的な現象である。現代日本に限った話ではない。他者との、「自然」との、「対話の必要性」は30年ほど前から叫ばれ続けている。「仮想世界」と「現実世界」との境界の識別は成人でも困難で、そもそもその二つの世界の区別が原理的には不可能であることは周知の事実だ。
 大人たちにできていないものを子どもたちに期待しても、それは無茶な話である。
 結局のところ、各社説から見えてくるものは、日本が閉塞状況にある、というこれまた周知の事実でしかない。
 「限界」内であれこれ工夫したとしてもそこには養老孟司の言う「バカの壁」が厳然する。
 現代日本が抱える最大の欠点は、一言で言えば、「温かさの欠如」だと思う。私の乏しい経験から判断しても、あそこほど「冷たい」社会はない。日本社会に暮らす人の多くはこれに賛成しないだろう。それは、養老の視点から言えば、「限界」内でしか思考していないからだ。
 当面の処方箋は一つしかないと思う。閉塞状況を打破するにはその「限界」を多様化・多数化するしかない。
 さまざまな「温かさ」をもって生きているさまざまな社会で育ったさまざまな人々にどんどん来てもらい――ここで「もらう」という表現を使う私の思考法にも同様の致命的な問題が伏在している、それは日本語で育った私の「限界」だ――、彼らと一緒に日本社会を再構成していくことである。

2008年5月4日日曜日

「愛」とは何か。

 Eros, Philia, Storge, Agape... 古代ギリシャ人たちと比べ、「愛」に関して私たちの精神はなんと貧しい、限定された観念しか持っていないのだろう。
Vorsprung durch Technik

2008年5月3日土曜日

1933.05.01.

 ドイツのメーデー。
 政治の無能、メディアの無力、市民の「無知」の恐ろしさ。。。事後的には小賢しいことはいくらでも言える。
 その時、そのクリティカルな瞬間を正確に分析し、適切な行動ができるか否か。大切なのは「今、ここ」にしかない。
Adolf Hitler will give you - ?

専門家というもの

 「職人」と呼ばれる人々の世界を含めあらゆる領域に当てはまる話だと思うのだが、何かを専門とする人々は、自分の専門、つまり自分でなければできない仕事にしか情熱を持ってあたることができない。
 それ以前のレヴェルや他の者にでもできる仕事ばかりさせられていると、その者は腐っていく。
 そのことが一般にはあまりにも理解されていない。結果として、職人は職人以外に理解し合う者を持つことができない。

2008年5月1日木曜日

芥川龍之介「海のほとり」

 これといった出来事も起こらない、淡々とした短編。しかし龍之介にはそれほど多くない、爽やかな読後感を残す。

批評の終焉?

 LATimesのPatrick Goldsteinがゲーム・映画・音楽の各領域において愛好者たちの多くがそれぞれの領域の専門家たちの「批評」をせいぜい販売会社の宣伝と同程度にしか尊重していない実態を紹介している。
The end of the critic?
 この傾向はおそらく愛好者層の平均年齢や教養度、そしてマーケットにおける商品化度などに並行するものなのだろう。この傾向は引き続いて文学(日本ではショーセツと呼ばれ始めている)や美術(これもアートと呼ばれ始めている)に及んでいく。そして最後の牙城の「学問」というやつも安閑としてはいられなくなるだろう。
 もちろん大半の「批評家」はGoldsteinの言うように読者から乖離してしまっている。それのみならず私は「専門家」たちの実力が実は自分たちが信じているほど大したものではないということが「世間」に見抜かれてしまっていることにも一因があると思う。私の知っていた「評論家」の器の矮小さや"pundits"たちの恐るべき無知などを思い出すと、世間の味方になりたい誘惑にも駆られる。
 もちろん、社会・世界・地球レヴェルの問題を考えることのできる人間を育てる、という視点から見れば、この傾向が破壊的な効果しかもたらさないだろうことは明白だ。いつか(100年後か200年後か知らないが)人類がその愚かしさに気づく日が来ることを祈りたいが、その選択も彼らの能力の範囲の話だから祈ったからといって何かが変わる種類の問題でないことも明らかだ。
 日本占領軍司令官のマッカーサーが退任演説の際に言った"Old soldiers never die,...just fade away."という言葉がある。
「老兵は消え去るのみ」と訳されて日本では一般には諦念を表す慣用句としてよく使われる。しかし彼自身が意味したことを敷衍して考えれば、諦めでも失意でもなく、誇りをもって隠遁生活を選択するという道があり得ると思う。