2008年5月5日月曜日

「子どもの日」

 日本の各紙では関連する社説が並んだ。
東京新聞「
『つながり』を知るため こどもの日に考える」
毎日新聞「こどもの日 大人はもっとお節介になろう」
読売新聞「こどもの日 目と目を合わせて話そう」
朝日新聞「こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに」

 それぞれアプローチは異なるが、共通する点が一つある。
 子どもたちが「こころ」を失いつつあるという主張である。ヴァーチャル世界の発展により子どもたちが「仮想世界」と「現実世界」とを区別できなくなっているという視点もそれに付随して共通している。
 しかし、少年期の「残酷性」は普遍的な現象である。現代日本に限った話ではない。他者との、「自然」との、「対話の必要性」は30年ほど前から叫ばれ続けている。「仮想世界」と「現実世界」との境界の識別は成人でも困難で、そもそもその二つの世界の区別が原理的には不可能であることは周知の事実だ。
 大人たちにできていないものを子どもたちに期待しても、それは無茶な話である。
 結局のところ、各社説から見えてくるものは、日本が閉塞状況にある、というこれまた周知の事実でしかない。
 「限界」内であれこれ工夫したとしてもそこには養老孟司の言う「バカの壁」が厳然する。
 現代日本が抱える最大の欠点は、一言で言えば、「温かさの欠如」だと思う。私の乏しい経験から判断しても、あそこほど「冷たい」社会はない。日本社会に暮らす人の多くはこれに賛成しないだろう。それは、養老の視点から言えば、「限界」内でしか思考していないからだ。
 当面の処方箋は一つしかないと思う。閉塞状況を打破するにはその「限界」を多様化・多数化するしかない。
 さまざまな「温かさ」をもって生きているさまざまな社会で育ったさまざまな人々にどんどん来てもらい――ここで「もらう」という表現を使う私の思考法にも同様の致命的な問題が伏在している、それは日本語で育った私の「限界」だ――、彼らと一緒に日本社会を再構成していくことである。

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