2008年5月18日日曜日

「言語ゲーム」

 Wittgensteinの苦悩の一端が最近わかってきたような気がする。頭では理解しているつもりでいたが、実際に身体で経験してみると、これは本当に大変である。

 「次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の 中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という 語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を 繰るのである。――「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い>という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をど うやって知るのだろうか。」――私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。――しかし「五つ」という語の意味は何なのか。――そういうことはここでは全く問題になっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。」(『哲学探究』)

 使いの者と商人とがそれぞれ持っている諸規則――「リンゴ」の意味規則、色見本、基数系列――が異なっている場合――そしてそれらが同じである場合は原理的には皆無であるはずである――、いったいどのように共通理解が成立するというのか。
 これが実際に二人が顔を付き合わせながら「リンゴ」「赤」「五つ」に関する互いの規則を参照・確認しながらのコミュニケーションならまだ救いはある。その場で訂正し、互いの規則を教えあい、また教え合うという行為の絶対的必要性を両者が常に確認しながら、意思疎通を図ることができるからだ。
 eメールやチャットなどの電子媒体は恐ろしい。書簡と比べ、一見、会話に近い媒体であるために、大きな誤解がその間にあることを双方が気づかず、スムーズにコミュニケーションが展開しているという誤った前提の下にやり取りが続き、最初の誤解が実は両者の関係にとって取り返しのつかぬ命取りにまで肥大してきているのに、最後の最後までどちらも気づかず、コミュニケーションが崩壊してしまう。幸運な場合にはのちに実際に会うことができて、それらの「誤解」を「まとめて」修正することができるかもしれない。しかしそうでない場合には、どの規則を共有していなかったのかということを最後までとうとうどちらも突き止めることができないまま、関係が破綻する危険がある。
 「母語」が「同一」の場合でもそうでない場合でも、原理的には問題の深刻さは同じはずである。しかしそれは「原理的には」であって、実際にそのディスコミュニケーションを「生きて」みると、その深刻さは比較にならない。
 破綻を避ける(ことができるかもしれない)手段はただ一つ、本当に大事なことは、きちんと互いに目を見つめながら話せるときにしか話さない、ということしかないようだ。

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