2008年5月5日月曜日

供給過剰商品

 今日の山崎元も面白い。経済評論家の不経済性
 マーケットを30年見続けてきた者から見れば、証券会社や銀行の20代や30代の若造が公定歩合がどうの為替がどうのと得意そうにペラペラしゃべっているのをかたはら痛く思うことがある。データは全て揃っているのだからそれを繫ぎあわせればそれぐらいの事は俺にだって言えるとこっちは思ってしまう。しかし、それらの青二才はともかく、やはり専門は専門で、山崎元や寺岡実郎などの書いているものを読むと、さすがに専門家だといつも感心させられる。
 供給過剰な(いや供給過剰だと誤解されている)のは経済評論家だけでなく、日本語教育もそうである。母語が日本語だから、日常的に日本語が話せるから、日本語が教えられる、日本語について論じることができると思い込んでいる人が後を絶たない。それは別に母語話者に限らない。日本語をマスターしたから日本語を教えられると思い込んでいる「元-学習者」たちも同罪である。大変な努力をして日本語のような訳の分からぬ言語をマスターしてきた人たちへの敬意においては人後に落ちないつもりだが、しかし、日本語を使えるということと日本語が教えられるということとは全く別世界の話だということが分かっていない。
 二足歩行できるからといって、歩行のメカニズムを正確に、しかも素人にも分かるように分かりやすく、解説できる人が殆どいないことを考えれば分かりそうなものだと思うのだが、これがなかなか分かってもらえない。
 「二足歩行」と「運動生理学」が全く別概念であることと同様に、「日本語」と「日本語教育」もまた全く別概念なのである。
 「日本語教育」というのは、教育内容が(「数学」や「運動生理学」と同次元に並ぶ)「日本語」であるところの「教育」という専門分野である。教育学を修めていない者に数学や運動生理学を教える資格がないのと同様、日本語を教える資格も(本来は)ないことを忘れてもらっては困る。
 えらそうな事を言っているこの私にも、実は教える資格がない。教育学を修めてもいないし、教員免許も持っていない。「日本語」という科目を30年、大学で20年、担当してきた、という歴史だけしかない。
 だから、私は日本語を「教えて」はいない。毎日教室で「遊んで」暮らしている。

 。。。しかしまあ、絵に描いたような見事な腰砕けの文章になった。

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