ブルガリア人がその点で(も)時代遅れだということは分かるので、議論するつもりはないのですが、「若い人には、世界のあらゆることに向き合う際、もう少し冷静に、知的に、ニセモノを見抜くだけの眼を持ってもらいたいと思う」と前に書かれた先生がそういう当てにならない調査を引用するのは面白いと思います。
ほお。「当てにならない調査」というのはどういう根拠でおっしゃっているのですか。
その調査はどこで行われたのですか。「ソフィア」いつ?「水曜日」誰に?「…」不明な点が多すぎると思われないんですか。
あなたは、「そのレポートもラウンドテーブルもアイデンティティが不明」→「当てにならない」という論理でおっしゃっているようですが、「詳細な情報がない」→「全面的に信用するのは危険である」という論理でおっしゃっているのだと好意的に解釈して話を進めます。 僕自身が調査をしたわけでも記事を書いたわけでもありませんが、何らかのデータを提示する記事において調査主体も発表場所も書かないのは明らかに不備ですね。むしろ昨今の極右勢力からのテロ攻撃を考えてあえてアイデンティティを開示していないのではないかと私は推測しています。 だからといってそこから話を展開することをいつもためらっていては何も話ができないことになるし、それこそ言論の自由を自らの手で縛ることになってしまう。 そこで僕は「経験則」を持ち出したわけです。 だからあなたの批判は私がその情報を元に自論を展開したということに対してではなく(実際私はそれをしていない)、私が自分の経験に基づいて現在形作っている印象に対して向けられるべきものです。お互いに研究上の論争をやっているわけではないので、とどのつまり、あなたの印象は間違っている、いや私の印象は正しい、という、「批判」ではなく「おしゃべり」を続けることになりますね。 なお、記事中のデータその他の信用性に関してそれがある程度信頼できるものであろうと判断する状況証拠は挙げられると思います。 このラウンドテーブルのテーマから判断しても、発表者も参加者もある程度高い教育を受けた人々であろうと推測されます。そういう人々の間での議論ですから、サンプルも少ない根拠も薄弱な調査結果を提示しそれに基づいて話をしようとすれば即座に叩き潰されるのが普通ですね。叩き潰された話をさらにメディアが無反省に紹介するとなると、さらにその可能性は低くなります。 以上のようなことを考えならが、私はその記事内容をある程度信頼できると判断しながらもそれを根拠に論じることは避け「経験則」を持ち出して話を続けようとしたわけです。 とりあえず、以上です。反論を期待します。
とても詳しい回答をありがとうございました。何度も申し訳ございませんが、一言では「先生が自分の経験則とほぼ一致する(不備な)記事を載せて、ブルガリア人の人種差別に対する意識を紹介された」という解釈でよろしいでしょうか。やはりブログですので、いつも事実に基づいた客観的な判断基準を提供する必要はないんですね。
はい。真理を追究するためなら、学術論文を書く、芸術作品を創造する、というような道を選ぶべきだと思います。
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6 件のコメント:
ブルガリア人がその点で(も)時代遅れだということは分かるので、議論するつもりはないのですが、「若い人には、世界のあらゆることに向き合う際、もう少し冷静に、知的に、ニセモノを見抜くだけの眼を持ってもらいたいと思う」と前に書かれた
先生がそういう当てにならない調査を引用するのは面白いと思います。
ほお。
「当てにならない調査」というのはどういう根拠でおっしゃっているのですか。
その調査はどこで行われたのですか。「ソフィア」いつ?「水曜日」誰に?「…」不明な点が多すぎると思われないんですか。
あなたは、「そのレポートもラウンドテーブルもアイデンティティが不明」→「当てにならない」という論理でおっしゃっているようですが、「詳細な情報がない」→「全面的に信用するのは危険である」という論理でおっしゃっているのだと好意的に解釈して話を進めます。
僕自身が調査をしたわけでも記事を書いたわけでもありませんが、何らかのデータを提示する記事において調査主体も発表場所も書かないのは明らかに不備ですね。むしろ昨今の極右勢力からのテロ攻撃を考えてあえてアイデンティティを開示していないのではないかと私は推測しています。
だからといってそこから話を展開することをいつもためらっていては何も話ができないことになるし、それこそ言論の自由を自らの手で縛ることになってしまう。
そこで僕は「経験則」を持ち出したわけです。
だからあなたの批判は私がその情報を元に自論を展開したということに対してではなく(実際私はそれをしていない)、私が自分の経験に基づいて現在形作っている印象に対して向けられるべきものです。お互いに研究上の論争をやっているわけではないので、とどのつまり、あなたの印象は間違っている、いや私の印象は正しい、という、「批判」ではなく「おしゃべり」を続けることになりますね。
なお、記事中のデータその他の信用性に関してそれがある程度信頼できるものであろうと判断する状況証拠は挙げられると思います。
このラウンドテーブルのテーマから判断しても、発表者も参加者もある程度高い教育を受けた人々であろうと推測されます。そういう人々の間での議論ですから、サンプルも少ない根拠も薄弱な調査結果を提示しそれに基づいて話をしようとすれば即座に叩き潰されるのが普通ですね。叩き潰された話をさらにメディアが無反省に紹介するとなると、さらにその可能性は低くなります。
以上のようなことを考えならが、私はその記事内容をある程度信頼できると判断しながらもそれを根拠に論じることは避け「経験則」を持ち出して話を続けようとしたわけです。
とりあえず、以上です。反論を期待します。
とても詳しい回答をありがとうございました。何度も申し訳ございませんが、一言では「先生が自分の経験則とほぼ一致する(不備な)記事を載せて、ブルガリア人の人種差別に対する意識を紹介された」という解釈でよろしいでしょうか。やはりブログですので、いつも事実に基づいた客観的な判断基準を提供する必要はないんですね。
はい。真理を追究するためなら、学術論文を書く、芸術作品を創造する、というような道を選ぶべきだと思います。
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