2008年1月31日木曜日

頭痛

 肩こりから来る頭痛に昨日から苦しんでいる。調子に乗ってすぐやりすぎる。こればかりはなかなか学習しない。

鷗外「なかじきり」

 鷗外の孤高。自ら強く求めた孤高。

龍之介「トロツコ」

 うまい。どの文化にも共感を呼ぶであろう普遍性を持つ。

Karl Böhm

 今夜のMezzoはベームとウィーン・フィル。練習風景やシューベルトの交響曲7番などをやっていた。
 ああ、内省的な哲学者ベームだ、と本当に久しぶりに映像を観ながら懐かしく聴いた。僕の学生時代はカラヤン+ベルリン・フィルと人気を二分していた。特に日本ではカラヤンよりも愛されていたと言ってもよいのではないか。私もベームのほうが好きだった。
 いま聴くと、カラヤンが古びていないのに引き換え、どうしても一時代前の音楽という印象を否めない。
 時代は移り、私も変わった。

Tony Judt

The 'Problem of Evil' in Postwar Europe
 相変わらず鋭い。一読されるよう強くお勧めしたい。
 「記憶」の陳腐化と私物化。問題はShoahだけではないし、ヨーロッパに限定されたものでもない。

「まとめる」?

 CASA LUI HIRAMIE(お、いつの間にかLUIに変わってる。ルーマニア語、徐々に上達しているみたいね。)によれば、Hiranieさんは「まとめる」ことがお上手な方のようだ。
 へ~~え。。。。。。。。

Liaisonオンラインショップ

 私が顧問をしているLiaisonオンラインショップを開いた。こちらも宜しく。

2008年1月30日水曜日

祝優勝

 京都教育大学職員野球部年度総会資料を送ってきた奴がいる。
 「よそもんにそんなもん送ったらあかんやろ!」(M前監督)
 「まあ、ええんちゃいますか。たいしたこと書いてへんし。」(H新監督)
 それはそうと、当該資料によれば、2007年度成績は、春の三教育大学定期戦3位(つまり最下位。これは僕も出た。生涯最高の大飛球といういい思い出と共に僕の凡ミスで流れが変わり負けてしまったという苦い記憶もある。)、秋の都チャンピオンシップ4位(つまり最下位)と精彩を欠いたが、秋の三教育大学定期戦では6年ぶりの優勝を飾ったようだ。個人成績表から推測すると、主力の高齢者組が待ちに待った大活躍を見せてくれたようである。ヴェテランたちが復活した以上、今年も期待できるだろう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・。
 時・空間的にともに遠くなってしまった世界。
 何だかちょっと甘酸っぱい思いもする。

Suharto死す

Pramoedya Ananta Toerを読み返す。

鷗外「ぢいさんばあさん」

 言わずと知れた名短編。
 何度読んでも、良いものは良い。

芥川「たね子の憂鬱」

 あまりにも繊細でこわれやすいたね子。。。そして龍之介。。。

2008年1月29日火曜日

たわごと

Stefan Theil,"Europe’s Philosophy of Failure"
 世間はキッチュに溢れているが、これは相当のものである。
 
中学1年前期末試験「英語」
「本文中の論理の稚拙な点から主要なもののみ10点を挙げて論じなさい。」


「島国根性」

 私は日本の新聞は国際問題を取り上げることが少ないという印象を持っている。その中できょうは毎日新聞が社説でイスラエル問題を取り上げた。
社説:ガザ 「強制収容所」を終わらせよう
 その姿勢は評価するが、分析に新鮮な切り口があるわけでもなく具体的な提案があるわけでもない。こんな程度の話なら誰でも言える。
 私は特に日本国外に住むようになってから、日本の新聞5社の社説を毎日読むようにしている。外国で教壇に立つ以上、日本に関する最低限の分析は続ける必要があるからである。しかし、その質への評価は、日本・日本語研究をする私の周囲の友人たちの評価と同様で「面白くない」の一言に尽きる。それは特に日本列島以外の問題――世界の問題の大半はそれである――に当てはまる。「島国根性」という言葉が死語になる日はいつのことだろう。
 短期的にはさまざまな領域から非常勤の編集委員を入れる、長期的には若手を(外国の他のメディアに留学させるなどして)厳しく育てる、そういう提案をしたい。 

「ムスリムの女性」というフラッシュカード

"The term "Muslim women" is a flashcard that ignites furious arguments that have more to do with political positions and much less with the women themselves."
(Mona Eltahawy, "Caught in the clash of civilizations")
 この記事は鋭い洞察に裏打ちされている。その切実さに心を打たれる。

漱石『こころ』

「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。」

鷗外「センツアマニ」

 鷗外の手にかかると、Maksim Gorkiiも日本が舞台だと言ってもおかしくないものに化ける。
 これも一種の普遍性だろう。

2008年1月28日月曜日

龍之介「しるこ」

 これなどを読むと、なぜ彼が鷗外・漱石の域に生涯到達することがなかったかが分かる。
 視野が狭い。

Paul Theroux, "Sunrise with Seamonsters"

"As a coward I can expect nothing except an even stronger insistence that I go and fight. Fight whom? A paradox emerges; the coward recognizes no enemies. Because he wants always to think that he will not be harmed (although he is plagued by the thought that he will be), there is no evil in his world. He wills evil out of his world. Evil is something that provokes feelings of cowardice in him; this feeling is unwelcome, he wants to forget it. In order to forget it he must not risk hating it. Indeed, the coward hates nothing just as he loves nothing. These emotions are a gamble for him; he merely tolerates them in others and tries to squash or escape them in himself. He will condemn no one when he is free from threat. (from "Cowardice")
 僕はこの人が大好きである。

若返り

 さっき勉強しながら、何気なく左膝をグキッと内側に曲げたら、何と持病の膝痛が治った。ジョイントの問題だったわけである。3年ほど前サッカーで痛めて以来苦しんできた痛みだったから、3年ほどまた若返ったわけだ。
 また若くなってしまった。どうしよう。

Cristian Mungiu "4 Months, 3 Weeks, and 2 Days."

 "4 luni, 3 săptămâni şi 2 zile"。すばらしい。胸を抉られる。映画という表現手段がもつmagnitudeを感じさせてくれる。

2008年1月27日日曜日

鷗外「サフラン」

 鷗外の内的世界の豊かさをよく示す名文である。長いが引用しておく。

 「鉢の土は袂屑のような塵に掩われているが、その青々とした色を見れば、無情な主人も折々水位遣らずにはいられない。これは目を娯ましめようとする Egoismus であろうか。それとも私なしに外物を愛する Altruismus であろうか。人間のする事の動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く容易には自分にも分からない。それを強いて、烟脂を舐めた蛙が膓をさらけだして洗うように洗い立てをして見たくもない。今私がこの鉢に水を掛けるように、物に手を出せば弥次馬と云う。手を引き込めておれば、独善と云う。残酷と云う。冷澹と云う。それは人の口である。人の口を顧みていると、一本の手の遣所もなくなる。
 これはサフランと云う草と私との歴史である。これを読んだら、いかに私のサフランに就いて知っていることが貧弱だか分かるだろう。しかしどれ程疎遠な物にもたまたま行摩の袖が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。」

バチカンの物売り

(Click the pic. to enlarge)
 これまでは、バチカンに行くと城壁外に必ずロマ系の人々のものもらい・スリ・かっぱらいを見たものだった。
 2007年末。今回は違う光景に出会った。
 城壁外の歩道の縁に座って本を読んでいたときのこと。
 アフリカ系の若者たちが城壁に沿って木箱や段ボール箱を置き、その上に安物のかばんや時計を並べている。
 ところが、こういう場面でよく見られる、前を行く観光客に一生懸命売りつけようとする姿勢がない。むしろ、品定めする観光客の肩越しに、おどおどと、何かを探しているような視線の動きをしている者が多いことを訝しく思っていた。
 すると、しばらくして、けたたましいサイレンと共に一台のパトカーがどこからか突っ込んできて、急停車。サイレンを鳴らしてくるのだから、その時には既に若者たちは商品を畳んで(小型のスーツケースのようなものに商品をゴムなどで留めているから、バタンとかばんを閉めればそれで終わり)、一目散に路地路地へと逃げて行った後である。一人などは「Permesso(すみません)!」と言いながら僕を飛び越えるように走り抜けて裏の路地へと逃げ去っていた。
 そして、「急襲」したはずのパトカーからは、ゆっくりと、恐ろしくゆっくりと、二人の警官が降りてくる。そして、上の写真のように若者たちが残していった「陳列棚」等を、これまたゆっくりとトランクに積み込んで、去っていく。
 そして、ご想像通り、警官が去った2分後には、全く元通りの光景が復活する。いや、警官の「押収」中から、すでに物陰で若者たちは新しい「陳列棚」を抱えて、警官の去るのを待っていたのである。
 そして、これまたご想像通り、10分後には同じパトカーの「急襲」が展開する。
 私は1時間ほど歩道に座り込んでいたのだが、それが数度繰り返された。当然私はいろいろなことを考えることになる。もう読書どころではない。
 警察が本気で摘発するつもりなら、大部隊を動員する、わざわざサイレンを鳴らしながら来ない、それに、何よりも、裏の路地で若者たちに次から次へと「陳列台」や商品を供給し続けているはずの元締めを押さえにかかるだろう。
 結論はこうである。
 売り上げよりも「捕まらない」事の方が遥かに重要(捕まったとなればあとは命がけで脱出した筈の故郷への強制送還しか残っていない)な若者たちと、下っ端の警官(捕まえたら仕事が増えるという事情もあれば若者たちへの「同情」のような感情もあるのではなかろうか)たちとの間には「演劇関係」のようなものが暗黙のうちに成立しているらしい。
 ぼくは、何か温まったような気持ちになり、尻の泥を払いながら立ち上がる。

芥川「じゅりあの・吉助」

奉行「そのものどもが宗門神となったは、いかなる謂れがあるぞ。
吉助「えす・きりすと様、さんた・まりや姫に恋をなされ、焦れ死に果てさせ給うたによって、われと同じ苦しみに悩むものを、救うてとらしょうと思召し、宗門神となられたげでござる。」

 ユーラシアの吹き溜まりに辿り着いた信仰の一つの姿。

鷗外「ゲーテ『ファウスト』より」

さて落ち着きはらつて、すばしこく、天からこの世へ、
この世から地獄へと事件を運ばせてお貰ひ申しませう。」

 この瑞々しさはどうだろう。鷗外はまことの偉人である。

水星のカラー写真

(Click the pic. to enlarge)
Crescent Mercury in Color

Credit: MESSENGER, NASA, JHU APL, CIW

2008年1月26日土曜日

芥川「さまよえる猶太人」

 事実とは何か。虚構とは何か。文学とは何か。
 ボルヘスと龍之介。

For what else can any of us do?

 Stef Penney, "The Tenderness of Wolves"
 
比較的平易な英語で書かれていて、なかなかに読ませる。僕にしては一気に読んだ部類だろう。僕の英語のレヴェルにはありがたかった。
 このようなレヴェルの読書経験を積み重ねていけばもう少し日常的な英語も使えるようになるのかもしれない。しかし、一方で僕の内面は内容的にかなりの手ごたえのある作品を要求し、その種の作品はたいてい英語が難しく、すぐに放り出したくなる。
 なかなかうまく行かないものだ。

個別宗教の属性とその間の関係

 キリスト教文化圏のジャーナリストたちがチベット仏教やヒンドゥーの宗教指導者の前で合掌して「祝福」を受けている映像はよく見る。
 しかしその彼らがイスラム教指導者から祝福を受けている映像は見た記憶がない。どなたかそういう映像をご存知なら教えてほしい。
 問題はそれだけではない。
 イスラム教指導者から祝福を受ける「異教徒」、ユダヤ教指導者から祝福を受ける「異教徒」、キリスト教指導者から祝福を受ける「異教徒」、等々。そういう場面は圧倒的に少ないのではないかと思う。
 なぜか。そこにも「宗教」を考える一つの鍵がある。

隠者鍋

 以前からこのブログを読んでくださっている方はKOMATO Soupをご存知であろう。
 絶品スープとして好評を得てきた同スープであったが、2,3ヶ月前、ふと、厳冬に備え栄養価も高めようと、鶏のレヴァーを入れることを思いついた。
 近所の店で一番安かった1キロの冷凍ものを買った。当然カチンコチンに凍っているので、分割するのがめんどくさくて全部鍋に入れた。

 その日からなぜかこのスープは誰にも食べてもらえなくなった。私を除いて。
 ところが、である。きょう、これも思いついて、きょうの分を小鍋にとって、снрене(白チーズ)をひとかけら溶かし入れた。
 すると、なんと、再び絶品スープとなった。まさに魔法である。
 既に数ヶ月、実に様々なもの(詳細は書かないほうがよいだろう)を溶かし込み、煮込まれてきたこのスープを、本日「隠者鍋」(断じて魔女鍋ではない、念のため)と命名する。

漱石「ケーベル先生」「ケーベル先生の告別」

 その他の点で比較することは問題外だしその気もないが、私もRaphael von Koeberの弟子である。生き方において。

株式会社大学

「株式会社大学 きちんと教育をしているのか」(読売新聞社説)
 まともな大学人は、この動きが始まろうとしていた頃からずっと危惧・反対してきた。何をいまさら、と感じる人も多かろう。
 大学というものには、このグローバリゼーションの時代に最低限の経営感覚さえ持ち合わせない時代遅れの「センセー」も要らないが、教育研究をビジネスの観点からしか考えられない「マネージャー」も要らない。それはスタッフだろうが教員だろうが同じことである。

芥川「きりしとほろ上人伝」

 アンティオキアと日本中世説話との出会い。
 朗朗と誦まれよ。

サバを読む

 私の教え子に、若く、幼く見られるのを嫌って、人には一つ多めに年齢を言ってきたという人がいる。日本の女性である。
 あっぱれな奴である。

風呂嫌いの週末

 風呂に入ろうとしたら、
 「明日どこかに行くの?」
 と子どもに聞かれた。

2008年1月25日金曜日

漱石「カーライル博物館」

 カーライルは漱石と相通ずる気質を持った人物だった。
 少なくとも漱石はそう捉えていると見える。

They’re quite nice really.

"We're quite nice really"
 イギリスの人々の「成熟」を感じる。オリジナルの”British Social Attitudes: the 24th Report"を買おうかと思ったが、£50。やめた。

「かのやうに」

 鷗外の鋭敏さがよく出ている。
 秀麿は鷗外である。

ローマの伝統

 この写真の古本屋を冷やかしていたときのこと。
 店の前に一台のゴミ収集車が止まった。
 おなじみの蛍光色のジャケットを着た職員が両手に十数冊の古書籍らしきものを持って店の中に入ってくる。それを無言で書店主に渡し、何がしかの金を受け取って、再び収集車は走り去る。
 こうして、職員も書店主も利益を上げ、貴重な書籍は命拾いをし、ローマの文化は守られてゆく。

Andromeda Island Universe

(Click the pic. to enlarge)
Andromeda Island Universe

Credit & Copyright: Tony Hallas

2008年1月24日木曜日

龍之介「カルメン」

 この作品に出てくる「イイナ・ブルスカアヤ」はロシア・グランドオペラの花形だったというIna Burskayaのことであろう。少なくとも二度は訪日して、「カルメン」を一度は演じている。
 作品中では、彼女を追いかけて東京までやってきたロシアの侯爵が、彼女が既にアメリカ人実業家の「世話」になっていることを知り、ホテルで首を
縊る。
 虚実の境界はどこにあるのだろう。

2008年1月23日水曜日

漱石「イズムの功過」

「人生の全局面を蔽う大輪廓を描いて、未来をその中に追い込もうとするよりも、茫漠たる輪廓中の一小片を堅固に把持して・・・」
 心に留めるべき言葉である。

鷗外「カズイスチカ」

 真面目な医師の日常を淡々と描く。鷗外ならではの短編。

Joseph E. Stiglitz

 現在世界が持つ数少ない「まっとうな学者」の一人である。
"How to Stop the Downturn"
 「まっとうな学者」というのは、専門知識がない素人にも、なるほど言われてみればその通りだな、と納得させ、凡百の「専門家」たちのお喋りの世界から解放し、新しい世界観を与えてくれる学者のことだ。
 しかし最大の問題は、いつの時代も、どこにおいても、他ならぬ権力者たちに限って、そのまっとうな学者たちを理解する能力がほとんど備わっていないことである。

芥川「お律と子等と」

 小さな描写の一つ一つからさまざまなものを読み取ることを読者に要求する技量はさすがである。

吹雪

 ここしばらく暖かい日が続いて、3週間以上積もったままの街の雪もそろそろ消えるかなと思っていたら、今日は早朝から猛烈に吹雪いている。天気図から判断すると、これはしばらく続きそうな気配である。

2008年1月22日火曜日

 客がいる時は僕はソファで寝るのだが、その僕の横で勉強している子どもによれば、最近僕は寝ている時ニコニコ笑うことが多いそうだ。時には声を上げて笑うという。それも毎晩。
 そういう楽しそうな夢に限って、覚えていない。

Mercury's Horizon

(写真クリックで拡大)
Mercury's Horizon from MESSENGER

漱石「『土』に就て」

 漱石の温かい一面が良く出ている。この人には冷酷なのか温かいのかよく分からないところがある。
 実に魅力的な人である。

2008年1月21日月曜日

鷗外「うたかたの記」

 他人の褌で相撲をとるばかりか権力に阿り金儲けに走る、大学人にあるまじき見下げはてた誰かさんに教えてもらわずとも、日本語の音の美しさは、このような良い作品を朗読してみれば誰にでもすぐ分かる。
 本当に美しい作品である。

芥川「かちかち山」

 この話は意味が分からない。背景を推し量るための資料も手元にない。誰か教えて。

"allophilia"

Those people: What if our prejudices could be transformed into a force for good? A Harvard scholar suggests a new way to think about social relations.
 Boston Globeらしいアカデミックな記事で、なかなか面白かった。
 集団間だけの話ではないだろう。僕の根本的な欠陥――もう直らないだろうし、直そうという気も失せてしまった欠点――を思い出させてくれた点でも面白かった。その欠点は何か、だって?そんな暇のある物好きな方はご自分で記事をお読みになって推測してください。

あごひげ

に白いものが混じるようになった。
 ある人が、頭の白髪はともかく、ひげはこまめに剃ったほうがいいと忠告してくれた。ひげの白髪は頭のよりも老いて見えるということのようだ。
 面白いね。何でだろうね。なぜひげの白髪のほうが老いて見えるんだろう。
 しかし、そもそも毎日「ちゃんと」ひげを剃らない、ということ自体が問題なんだろう(あ、お洒落で伸ばしている人とイスラム教徒は除く)けどね。あ、それにもう3ヶ月ほど散髪してないことも。
Comet McNaught Over Chile(Click the pic. to enlarge:
Credit & Copyright: Stéphane Guisard)

2008年1月20日日曜日

ガーゴイル

(Ai Khanoum出土,紀元前2世紀:写真クリックで拡大)
 Ai Khanoumは現在のアフガニスタン北部にあった、往時はGreco-Bactrian Kingdomの主要都市の一つ。まさに東西文化の混じり合う地だった。Hindu-kushを越えればバミヤンでありガンダーラである。
 British IslesからJapanese islandsまで、この写真を見たユーラシア人で、これは明白に我々の文化とは全く異質のものであると断言できる者が果たしてどれほどいるだろうか。
 このガーゴイルはまさにユーラシア人である。

同類

 イタリアでの休暇でのこと。 

 
Basilica di Santa Maria Maggiore前の広場。夜7時。街頭の下で本を読んでいる私に話しかけてきたアメリカの「詩人」。「古代ローマの神々の神殿の石柱を32本も略奪してきて建てたこのキリスト教会の前で、夜のこんな時間、東洋人の、それもその年齢のあなたが一心に読書している。私にはそれがとてもおもしろい。」と早口で一気にまくし立てて立ち去った。

 Santa Maria del Popoloの石段。午後。2時間ほどだろうか、読書と居眠りを繰り返して目覚めると、そばに誰もいなかったはずが、いつの間にか僕の周りに座って(結果 として僕は彼らに護られるような形になっていた)、申し合わせたように読書していた数人。みんなお互いに赤の他人同士。周囲の賑わいとは全く別世界の静か な空間。16時になり、誰も眼差しを交わすこともなく静かに立ち上がり、ひとりひとり教会に入っていく。Caravaggioを観るために。

 8時間待たされたFiumichino空港。ベンチで読書している私と子どものために、新しい情報を得るたびに、居場所を探してまで何度も知らせに来てくれたアメリカ人の美術教師。「熱心に読書していたあなたたちの前で私もやはり読書していたんですよ。」もちろん気づいてたよ。あなたはFirenzeの歴史に関するものを読んでいた。
 私には同じ「匂い」を持つ仲間が世界中にいる。

Gabriel García Márquez

earthly paradise of desolation and nostalgia...

Tratata tratata tratata trararach

 龍之介「お時儀」。名手の本領。

芥川龍之介「おぎん」及び「おしの」

 「信仰」というもの。神を選ぶか家族を選ぶか。日本列島に生まれ落ちた者が超越的存在を信じる宗教と遭遇した際のディレンマ。それは龍之介においても同様であった。

Simon Rattle

 Mezzoでベルリン・フィルの2007年ジルベスター・コンサートを聴く。
 寸分のスキもない「特別な」音楽を創り上げていることに驚く。ラトルのベルリン行きの時から大きな期待はあったが、まさかこのような高みにまで到達していたとは。それぞれが出会うことによってさらに輝きを増したラトルとベルリン・フィルとの間の相思相愛は本物である。
 鑑賞する者に全身で「生きる喜び」を感じさせる芸術というものはそうそうあるものではないのだ。
 指揮者としてこれからますます円熟していくであろうラトルと手を携え、既にこれまでも「特別」であったベルリン・フィルは、さらに格段の進化を遂げ、世界の他のどのオケとも比較することが意味を失うまでに、本当に「特別な」オーケストラになってゆくのかもしれない。

2008年1月19日土曜日

「おぎん」

 名の知れた名作を待たずとも、龍之介の手だれはこういう小品においても躍如としている。

The Story can resume...

 Atonement。最後の浜辺のシーンが陳腐な点を除き、ちょっと文句の付けようのない作品。すばらしい。いい映画がまた一つ誕生した。
 これでIan McEwanの原作も絶対に読まなければならなくなった。

若き日の龍之介

 「あの頃の自分の事」。颯爽としていて好ましい。
 「自分はアスフアルトの往来に立つた儘、どつちへ行かうかなと考へた。」という結びが心に残る。

学問研究と教員養成

「・・・中学の教師を養成するんなら、ちやんと高等師範と云ふものがある。高等師範を廃止しろなんと云ふのは、それこそ冠履顛倒だ。その理窟で行つても廃止さるべきものは大学の純文学科の方で、高等師範は一日も早くあれを合併してしまふが好い。」(芥川龍之介「あの頃の自分の事」)

2008年1月18日金曜日

the Guardian

 以前高く評価していたメディアなのだが、いつの頃からかどうもおかしくなってしまったという印象を持つのは私だけか。最近よくあるオーナー交代でもあったのだろうか。
 例えば
Why men and women find longer legs more attractive
 これで科学欄なのだから恐れ入る。日本のTVのワイドショーじゃないんだからね。

Ivlia Avgvsta Agrippina

ローマ帝国の栄光をまっすぐに駆け抜けた45年の生涯。Tacitus, Suetonius, Cassius Dio...。それぞれの史家により彼女への好意の有無/程度、事実解釈に大きな違いは見られるが、いずれにせよ稀有の人生であったことに変わりはない。

Thor's Emerald Helmet

Thor's Emerald Helmet (写真クリックで拡大)

2008年1月17日木曜日

見学者

 「先生が、いつもの冗談を、あの頃の私たちに対してでなく、今このSofia大学の学生たちに向けて、言っている。
 あの頃の私たちのためでなく、いま、この学生たちのために、あの頃と同じように、一生懸命日本語の表現について説明している。
 いろいろなことを想いながら観ていました。」
 教室というものは、ハコではなく、何よりも人と人とが創り出す関係性の束である「共同体」である。そのことを思い出させてくれる、このようなコメントをもらうと、恥を忍んで授業を公開する意味も少しはあるのかな、とも思う。

Bitter days for a fabled old ally

Hmong refugees seethe as a venerated warrior, under house arrest in California, faces U.S. charges of plotting a coup against Laos.

THOREAU, Henry David

"A man does best when he is most himself." (1852.1.21.)

リゾーム

「一本の草よりも一すぢの蔓草、――しかもその蔓草は幾すぢも蔓を伸ばしてゐるかも知れない。」(芥川龍之介「『侏儒の言葉』の序」

褒め殺し。

芥川龍之介「『鏡花全集』目録開口」
龍之介はこういうのも書いていたのか。

水星

Messengerからの送信画像(写真クリックで拡大)。水星のこの部分のここまで詳細なものは初めてだという。

2008年1月16日水曜日

モナリザのモデル

 ハイデルベルグ大の歴史研究者が発見したという有力な文献資料によりモデル問題が決着を見たのではないかという速報を今BBCが流している。
 私としては、最も「異様な」説である、あれはレオナルドの自画像であるという説をそれでも支持したいという気持ちに変わりはないが。

2008年1月15日火曜日

めぐみの「雪」

 この十日ほど雪がそれほど降らぬ上ずっと氷点下が続いていたために、固まった雪が凍って歩道はカチンコチンの状態だった。危険この上なかった。
 だから、いま降り続いている雪は僥倖なのである。靴との間の摩擦係数が上がって、転んで死ぬ危険が減少する、誰にとっても。
 ものは考えよう、である。

The Cocoon Nebula from CFHT

(Click the picture to enlarge. http://antwrp.gsfc.nasa.gov/apod/astropix.html

2008年1月14日月曜日

「暖かい」朝

 今朝は本当に久しぶりに、頑張れば帽子もマフラーもなしに歩ける朝だった。凍ったのは両耳の上端だけだった。
 しかしそれも朝だけの話。午後再び雪が降り出した。2週間溶けない雪の上にさらにしんしんと降り積もる。

郵便

 現在機能していない。1ヶ月以上も前に日本を出た(はずの)郵便物がいずれもこちらに届いていない。外国郵便だけではない。市内の遅配でさえ1ヶ月をゆうに超えた。
 12月初めに発送されたクリスマスプレゼントがユリウス暦のクリスマスの1月7日を過ぎても届かないという悲喜劇があちこちで見られる。
 しかし45日ほど前に日本を出た郵便物が届き始めたという情報もある。やきもきされている方々、ご安心を。

Thank you very much for being there for me.

 すてきな表現だと思う。さすが教え子。僕という人間を見抜いている。Negative Politenessの好例。

「子どもの病気」

 芥川龍之介、大正12年作の小品。たまたま藤村の「嵐」に続けて読んだので、その違いを面白く感じた。
 こと子どもに関しては自分そっちのけで心に掛ける毎日を送る「嵐」の「私」と、無頓着を装うのだがその実子どもの病気が気になって仕事も手につかぬ龍之介。
 子どもを持つある友人に一読を勧めようと思ったのだが、唯物主義者のくせに子どものこととなると途端に迷信深くなる私は、何かゲンでも悪くなるのではないかとその勇気が出ずにいる。

2008年1月13日日曜日

藤村の日本語

 改めて感じるのは、その日本語の現代性である。
 二葉亭を嚆矢とする近代日本語のスタイルは、近代日本人の間で広く愛読された藤村の日本語によって、現代へと続くスタイルを獲得したと言える部分もあるのではないか。この事はあまり指摘されていないような気がするのだが。

「『遊蕩文學』の撲滅」

赤木桁平(1916)発表。
 表題から連想される浅薄さを予期しながら読み進めたのだが、ある意味でまっとうな論理が展開されていることを評価したい。
 しかし、この異様と言ってもよい激しさは、やはり自分から進んで敵を作ることに明け暮れる人生と最終的な自滅しかもたらさぬであろう。

第3回例会終了。

 Sofia日本語研究会。活発な議論ができた。話題提供者のAnton、参加者のみなさん、お疲れ様でした。

2008年1月11日金曜日

悠揚迫らぬ

ブルガリアの人々も
バス停では
走る

2008年1月10日木曜日

耐性

 気温が-10℃を下回った日はさすがに寒いと感じる。
 -5℃なら「ああ、今日は暖かい。帽子はいらないかな。」と考える。
 そして何かの間違いで±0℃あたりまで上昇しようものなら、汗をかきかき歩く羽目になる。
 これが、私がもうすっかりSofiaっ子に生まれ変わったという判断の根拠である。

2008年1月8日火曜日

修理

 どこでどう分かったのか、今日の掃除の日、暖房装置をすべて元通りに直してくれた。
 なぜこの故障に大家さんが気づいたのか。いくつかの可能性が考えられるが、明日あたりには判明するだろう。いずれにせよ、たくさんの人々に見守られながら生きている身、これぐらいの不思議では驚かなくなった。

寒さ緩む

 積もっていた雪が今日の昼間少し溶けた。気温が氷点上に上がったらしい。寒気がこの程度緩んだだけでこれだけうれしいのだから、春が来た時の喜びはいかばかりかと思う。
 もっとも、少し暖かくなったらなったで、また別の苦労も生まれる。今度は屋根や軒のつららや氷の塊が頭上に落ちてくるのを警戒せねばならぬ。直撃されれば、へたをすれば、一巻の終わりである。
 頭上と足元に注意しながらそろそろと歩く日々はまだまだ続く。

2008年1月6日日曜日

雪のSofia

 数日来の積雪がまったく溶けずに残る。空気中の水蒸気が凍結しているので空気が白っぽい、というのも京都から来た者には新鮮である。市内中心部に蛇口から温泉が出る汲み場があるのだが、数十ある蛇口がきのうは満員の盛況だった。同年齢の人たちに「連帯」感を感じながら肩を並べて1ℓビンに温泉補給。アイスクリームを持って帰るにはリュックに入れるより外気にさらして持った方が溶ける心配がないのだという「発見」も。
 家の暖房装置がだんだんおかしくなってきていて、四つのうち今や一つしか動いていないけれども、それなりに元気に過ごしている。
 きのう
青空市場のЖенски Пазарでビーツを二つ買って30ストティンキ(約26円)。店のお兄さんは笑って代金を受け取らない。
 また、凍てつく街角で地図を覗き込ん
でいると、必ずすぐ誰かが立ち止まって助けてくれる。
 寒いけれども、温かい街である。
 
「淑気(しゅくき)」という季語をSofiaの街に捧げたい。

2008年1月5日土曜日

「年年歳歳」

 阿川弘之、1946作品。原爆投下直後の広島に戻る復員兵と家族との再会。心に沁みる味わい深さ。

2008年1月3日木曜日

David(1504完成)

 Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、弱冠26歳で制作開始、29歳で完成。
 台座を入れれば高さは5メートルを超える。よく指摘される上半身と下半身のバランスの悪さも、真下から見上げれば完璧なプロポーションとなり、なるほどそういう狙いかと納得もする。
 色々な考え方があり得る。しかし、これとCappella Sistinaの天井画(1512完成)の二つを観る時、彼が何よりも「それ自体としての人間」とも呼ぶべきものを賛美して已まぬ人だったと、私は感じる。

2008年1月2日水曜日

星の誕生

 N90と呼ばれる、星を形成している領域の写真(click here)。中央の明るい青に輝く星たちが誕生したばかりの新星たちだ。
 心が洗われるような美しさである。

大雪

 暖かいローマから戻った途端の大雪である。
 買い物に出るのさえ億劫に感じる。
 とんだ新年のスタートになった。

お年玉

Astronomy Pictures of the Year for 2007 !

2008年1月1日火曜日

明けましておめでとうございます。

 
 
去年今年貫く棒の如きもの(虚子)

 昨年は50年の私の人生で最も激動の年となりました。大江の言葉を借りれば「人生の習慣」のあり方を大きく変えた年だったと言えるでしょう。
 今年はその質を高める年にします。
 読者の皆さんにとってよい年となりますように。

帰宅

 ローマのFiumicino空港を8時間半(!)遅れて離陸。
 アドリア海上空を飛んでいる時に年が替わった。機長のアナウンスが流れたとたん機内はお祭り騒ぎと化した。もう十分アルコールが入っている者、歌い出す者、踊り出す者、そのすべての条件を満たす者。。。
 ローマで離陸予定時間が次々と(少なくとも5回は)変更され続けていた時、あれほど激昂して機長や係員を吊るし上げていた、あの人たちが、である。
 ともあれ夜中の2時、無事ソフィアの我が家に辿り着く。
 たくさんの勉強ができた、実り多い休暇だった。
 しかし疲れた。
 寝る。