「代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでゐた。さうして、これを、近来急に膨脹した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈してゐた。又これを此等新旧両慾の衝突と見傚してゐた。最後に、此生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得てゐた。
この二つの因数(フアクトー)は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較べる日の来る迄は、此平衡は日本に於て得られないものと代助は信じてゐた。さうして、斯ゝる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めてゐた。だからこの窮地に陥つた日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはたゞ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。さうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつゝあるかを、互に黙知しつゝ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かゝる侮辱を加ふるにも、又加へらるゝにも堪へなかつた。」(夏目漱石『それから』)
社会がその各成員の内面に落とす影の濃さを思う。それは100年前も現在も同じである。
また漱石がここで「人類の一人として」という表現を二度も用いていることに注意が行くが、このことも少し分析していく価値がありそうな気がする。
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