2008年2月29日金曜日

芥川龍之介「闇中問答」

「或声 しかしお前は教へてもゐる。

僕 僕の教へたのは出来ないことだけだ。僕に出来ることだつたとすれば、教へない前にしてしまつたであらう。」

 もちろんこんなことは言わずもがなのことだ。紹介したかったのはこっちである。

「僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦《あし》だ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚《ぼ》れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。」

 ご存知かもしれないが、これは遺稿である。

映画「Before Night Falls」(2001)

Julian Schnabel2001年作品。画家らしい美しい映像とReinaldo Arenas自身の文章から抜き出されたナレーションがうまく融合していると思う。綺麗にまとまった分かりやすいもの(英語の「美しい発音」も含め)を好む人には欲求不満が残るかもしれないが、芸術はそれでいいと思う。Javier Bardemはこの作品でもすばらしい役者だということを証明している。脇役で出る曲者たち(Sean PennやJohnny Deppなど)もとてもよい。

Junot Díaz

Almaを読んだ。
 (アメリカ合州国で話される)スペイン語が分からないとこの作品のおもしろさが伝わらないのかもしれないが、残念ながら私の中のなにものも刺激されなかった。マンガ向き。

Richard Ford

Leaving for Kenoshaを読んだ。
 二ヶ月ほど前にNewstatesman誌とのインタヴューにおいて彼はwritingとtruthとの関係についてどう考えるかと問われ、

"Just putting down everything that you think is not going to uncover the truth; what uncovers truth in something is the habit of art. It's when you think, 'I've got to make something out of this for someone else, which I will make well enough that they can make use of it.'

 When you do that, when you turn away from yourself and towards some anonymous person, then I think you have a chance of making up something that might in fact be true."

と言っていた。

 そのことがよく理解できる、よい短編だと思う。

芥川龍之介「案頭の書」

 「皮肉なる現実主義」。それはまた龍之介自身の姿勢を形容する言葉でもあり得る。

2008年2月28日木曜日

芥川龍之介「或恋愛小説」

 「斜めに見る」龍之介。すべてが勘違いだという視点を作家が手放さないスタイルは文学にはならない。だからこのような形になったのだろう。

あはは。

 いろいろなところでユーモアのある交通整理を見たが、この町のも楽しそうだ。でも人気が出て渋滞がさらにひどくなったらどうするのかね。
All the jam's a stage for Romanian traffic police

Cesária Évora

 騙されたと思って一度聴いてみて下さい。何とも思わなければそれでよし、しかし、もし身体が――心が、ではありません――共振するようなことでもあれば、彼女の歌は「あなたの音楽」になります。
YouTube: Cesária Évora

2008年2月27日水曜日

斬新。

(©BBC)
 JUNYA WATANABEの2008-2009秋冬のパリコレに出る予定のものだという。
 すばらしい。

リハビリ?

 ある方からいただいたとれたての胡桃を、3年生たちに教えてもらった割り方で手で割ってつまみながら、安ワイン片手に、また別のある方から教えていただいたCesária Évoraを聴く。

2008年2月26日火曜日

ユーラシア大陸極東のアニミズム

(©BBC)
(千葉県)四街道市の奇祭、和良比のはだか祭りは、別名どろんこ祭りともいわれ、五穀豊穣と無病息災を祈願し、約200年継承され、毎年2月25日に行われる伝統行事となっております。

皇 産霊(みむすび)神社の祭りは、午前中は氏子による神事が行われ、参拝者に祝いもちなどがまかれます。この後男たちが、鉢巻・白ふんどし姿で、神社下の神 田に入り豊作を祈願します。またこの年に生まれた赤ちゃんが晴れ着姿で抱かれて、田んぼの泥を額にぬり、健やかな成長を祈ります。(解説:松本治雄氏)

 その表れ方は様々だがその底に流れるアニミズムは日本列島各地に豊富に残る。この列島ほどそれが豊かに受け継がれている所は、朝鮮半島や中国南部・インドシナ半島山岳部の少数民族を除くと、ユーラシア大陸では他にあまりないのではないか。

すみません。

 どうもまたみなさんにご心配をかけたようである。
 一晩ぐっすり寝たら、また元気になりました。
 ありがとう。

a Cynic

 スィノペのディオゲネスが日向ぼっこをしているところへアレクサンダー大王がやってくる。
大王:何なりと望みを叶えてやろう。
ディオゲネス:では、日向ぼっこの邪魔をしないでもらいたい。

大王:私は大王のアレクサンダーだ。
ディオゲネス:私は犬(Cynic)のディオゲネスだ。

 レタスを洗っているディオゲネスを見てプラトンがやってきて言う。
プラトン:もしディオニュシオスに拝謁さえしていたら、君は今そうやってレタスなんぞを洗っていることはなかったものを。
ディオゲネス:もしレタスを洗ってさえいたら、君は今そうやってディオニュシオスなんぞに拝謁などしていることはなかったものを。

 私はこのディオゲネスを心の底から尊敬しているが、しかし下手に真似をして世間から弾き出されるのを怖がってもいるのである。私が弟子入りを許されることは金輪際ないだろう。

ああ、しんど。

 hiramieさんのブログに続いてAozoraさんも教育について意義深いことを書いている。「出会い」
 みんなまじめに考えているんだね。
 私はと言えば、ブログであれほど力んでしまった影響なのだろうか、今日は教室の中でも外でも一日中ことばが空回りしていた。これほど一日中調子が悪かったのは本当に久しぶりだ。Sofiaに来てから初めてかもしれない。
 身から出た錆。最低の気分である。やはり偉そうなことは言うものではない。もともと向いてない仕事なのだ(では何に向いているのかって?何もありませんよ、もちろん。)。それを無理矢理30年も続けてきたのだということを忘れてはいけない。
 とはいえ、明日からはまた身の丈にあったやり方で粛々とやっていくしか私には選択肢が残されていないこともこれまた忘れてはいけない。

2008年2月25日月曜日

東京新聞

 何度も紹介したことがあるが、今日のもとてもよい。
 
週のはじめに考える もっと会話を、読書を
 10代だけではない。もう少し上の世代からおかしくなり始めている。ここは日本の人たちの踏ん張りどころ(の一つ)である。

ランキング

 世界には平和な人たちもいるものだ。
 Michelin Gives Stars, but Tokyo Turns Up Nose
 私 も1年前は同じようなことを言っていた。「教育・研究とランキングは馴染まない」と。しかしそう言いながらも大学ランキングが発表されるたびに気にし、知り合いの新聞記者に「何でうちがあんな大学より下なの?」とぼやき、「いや、私は担当が違いますので。。。」と逃げられたりしていた。
 遠い昔の話である。

 山の端に 潰れて妖し マンダリン

2008年2月24日日曜日

二匹の「ネズミ」

(Click the pic. to enlarge)
NGC 4676: When Mice Collide
Credit: ACS Science & Engineering Team, Hubble Space Telescope, NASA

芥川龍之介「或日の大石内蔵助」

 名品。こういう鋭さは余人の追随を許さぬ。龍之介の面目躍如。

教えること

 お隣ブカレストのCASA LUI HIRAMIEさんが先日の私の記事を受けて書いていることを読んで衝撃を受けた。
「新学期の内省レポート」
 一部を引用する。
「私は、言語学習を通して、講義によって答えが言い放たれ、それを受容していく銀行貯蓄型、議論によって他者との関わりの中で自分で答えを見出していく対話型、の二つの学習へのアプローチを経験しましたが、学びの効果はともかく、前者がより不安のない教授スタイルであるという事実は、「教える」ことへの自問を始めてからも変わっていません。ビリーフというのは厄介なものですね。理想の実践に手が届かない感覚が常にあるのは、こうした昔の古傷ともいえる観念が体全体にしみ込んでいるからかもしれません。

 私はこんなにまっすぐに考えたことがなかったという事実と、私がひとには「対話型」の学びを唱導していながら、実は自分自身の教授スタイルは徹頭徹尾「伝達型」(hiramieさんの用語で言えば「銀行貯蓄型」)であることに今更ながら気づいた、ということ、この二つに衝撃を受けたのである。私の長年の苦しみの原因を教えてもらったという衝撃でもある。
 教えるということは、「規則」を教えるということだ、とWittgensteinがどこかに書いていた(ような記憶がある。『哲学探究』だったかな。)。コミュニケーションとは規則を教え合うことだ、と柄谷行人もどこかに書いていた(ような記憶がある。『探究Ⅰ』だったかな。)。
 私の長年の苦しみは、上段から自分の「規則」を言い放ち、それに対して学生が自分たちの規則を提示してこないために、「規則を教え合う」という事態がなかなか成立しない苛立ちと不即不離のものであった。引用した記述は、「対話型」を目指そうと学生たちには言いながらしかし実際には自分の規則を押し付けるばかりであったのだ、ということに気づかせてもくれたのである。
 しかし、だからといって、では本日より「対話型」の人間に生まれ変わります、というような話にはならない。残念ながら。
 教師には、大げさに言えば、命がけで守っている、自分の規則がたくさんある。それらの規則はいったん棚上げにしておいて「さあ、みなさんの規則を教えてください。私はそこから学びたいと思います。」とにこやかに「教師スマイル」を毎日振りまいているぐらいなら、教師などやめたほうがよい。

 私も命がけで話しているのだから、あなたも命がけで話してください。

 というわけで、私は明日からも、栄光のSofia大学の教壇をお借りして、上段から自分の規則を言い放ち続けるのである。いつか誰かが引き摺り下ろしてくれる日まで。

2008年2月23日土曜日

進歩主義・進歩信仰

 Paul TherouxのMy Extended Family(1977)を読むと、Ugandaの状況が、悪化しこそすれ、30年経っても一向に改善していないことに愕然とする。
 それとも関連するが、最近考え始めているのは次のようなことである。
 我々は社会・組織・共同体における状況を改善するために行動しているのであり、きちんと物事を進めれば必ず事態は良い方向に向かうはずであり、そのためには自己のみならず権力をも含む他者を批判することは絶対必要条件であり、そしてそれを保障するために思想・表現・言論・信仰などの「自由」というものがア・プリオリに存在するのだ、という考え方の下に20世紀後半に育った日本人は教育を受けた。そして曲がりなりにも日本という国はここまで何とか立ち直ってきた。(最近の日本の危なっかしさはここでは問わない。)
 しかし、そういう進歩主義(「信仰」というべきか)が社会全体に極めて強固に根付いているのは、ひょっとしたら世界でもユーラシア大陸の東西の端と北米大陸ぐらいなのではないか。
 少なくともこれまで自明の理だと信じ込んでいたものが、ひょっとしたら人類に「真の意味で」共有されているわけではないのではないか、という疑いのようなものが芽生え始めていることも事実である。

ニュース

 国内ニュースだけでなく、少なくとも国境を接している国々のことぐらいはとふだん注意しているのだが、ここのところニュースが多くてフォローが追いつかなくなりつつある。
 もちろん第一にセルビア・コソヴォ問題がある。それからトルコの高等教育機関におけるムスリム女性のヘッドスカーフ禁止問題がある。
 そしてきょうはトルコ軍が今度は地上軍を投入してクルド人地域のイラク北部を再侵略したというニュースが飛び込んできた。

ATONEMENT

 脚本を読み終えた。映画も見てほしいし、脚本も読んでほしい。"Atonement"
 本当にすばらしい。
 私は次にIan McEwanの原作を探すことにする。

書くこととやり直すこと。

Finally, BRIONY stands up and speaks, very formal.
BRIONY: I’m very, very sorry to have caused you all this terrible distress. I am very, very sorry.

ROBBIE: Just do what we’ve asked of you. Write it all down.

BRIONY: I will. I promise.

She leaves abruptly, her eyes brimming with tears.
(Atonement, script)
 そして、Brionyは書く。読者への配慮だとは言いながら、実はCeciliaとRobbieに向けて。彼らのために。彼らだけのために。

2008年2月22日金曜日

芥川龍之介「或敵打の話」

 完成度の高い短編。
 しかし、その後の日本の「時代劇」はこの類の話の陳腐な焼き直しに終始することになる。

大江健三郎『宙返り』

 いつの頃からか、大江の作品から「他者」が姿を消しつつあった。そして、この作品では、それが決定的となった。
 「神」のみが他者となった。
 彼が重要な役割を与えている登場人物は、すべて大江と同じ話し方をする。言い換えれば、全員が彼の分身である。
 そして、では唯一の他者たる「神」との対話が書かれるのかというと、それがまったくない。書かれるのは「神」の周りを右往左往する人物たちだけだ。
 結果として、長大なモノローグとなってしまった。同じモノローグでも大文字の他者を設定したドストイェーフスキイの『地下生活者の手記』とも異なる「ひとりごと」に終わっている。
 彼は間違いなく若い頃の私の一部をかたちづくってきた作家だった。
 大江自身が「宙返り」を演じ、一つの時代が完全に終わった。

ベオグラード「騒乱」

 米国大使館襲撃。他にも数カ国がやられた。何度も言うが、すぐ隣である。
 ブルガリアはコソヴォ独立承認に関しては様子見の姿勢を変えていないが、その日はこれでかなり先に伸びるのではないか。何よりも安全保障上の問題になりつつある。
 「専門家」たちの多くは、これは一時のことで「ガス抜き」さえ済ませればセルビアはEU加盟に向けて正常化に向かうと言う。
 10万人のアルバニア人を虐殺したことに比べれば他国の大使館を焼打ちにする程度のことはただの「ガス抜き」に過ぎない、という論理なのだと解釈しておく。

大学の市場主義

 Stanford offers middle-class tuition break: The university will give free tuition to most undergraduates whose families earn less than $100,000 a year.
 高品質の「原料」(新入生)を継続的に確保し、「高付加価値製品」(卒業生)を市場に出し続けるには高額投資(授業料免除)も当然、という思考法。
 スタンフォードに限らない。こういう戦略を選択する余裕のある「金持ち大学」は2ダースほどあるようだ。
 それにしても、「中流家庭」の定義が「月収100万円以下」とは恐れ入谷の鬼子母神。

イメージ。リアリティ。

 顕わにされたイメージの下に、さらにまたその下に、さらにまたその下に。。。無数のイメージの層が存在する。そして、最終的には、誰も見ぬであろう「リアリティ」の真のイメージが横たわる。絶対的かつ神秘的な「リアリティ」。。。
 "Beneath the image that is revealed lies another more faithful to reality...Beneath that one lies another, and yet another beneath that one, until we come to the true image of that absolute, mysterious reality which no one will ever see.'' (Beyond the Clouds)

Horsehead

(Click the pic. to enlarge)
Orion's Horsehead Nebula

Credit & Copyright: Victor Bertol

2008年2月21日木曜日

「虚構」と「現実」

その二分法が意味を成さぬとき。
BRIONY
: La soeur m’a envoyee. Pour bavarder un peu. (The Sister sent me. For a little chat.)
CORNET:
Ah, oui, je me souviens de ta soeur. Elle etait toujours tres gentille. Qu’est-ce qu’elle fait maintenant? (Oh, yes, I remember your sister. She was always so nice. What’s she doing now?)
BRIONY:
Erm, elle est aussi infirmiere. (She’s a nurse as well.)
CORNET:
Est-ce qu’elle s’est mariee enfin avec cet homme qu’elle aimait tant? J’ai oublie son nom. (Did she finally marry that man she was so in love with? I’ve forgotten his name.)
BRIONY: Er, Robbie. Bientot, j’espere. (She will soon, I hope.)

CORNET
: Robbie, oui, c’est ca. (Robbie, yes, that’s right.)
(
Atonement, script)

7ヶ月

 いま気づいたが、Sofiaに来てきょうでちょうど7ヶ月だ(何ヶ月何ヶ月ともうあまり数えなくなっていた)。
 子どもも私も体調を崩すこともなくここまで無事に暮らしてきた。ありがたいことである。
 どうということもない毎日が、どうということもなく過ぎてゆく。

2008年2月20日水曜日

志、恒、識。

 中国古典学者の友人から白川静の次のような言葉を教えていただいた。
「学問をする際に次の3つが必要とのこと。
志あるを要す=志がなければならない。
恒(つね)あるを要す=しょっちゅうやっていなければならない。
識(しき)あるを要す=見識がなければならない。」
本質的な批判として受け止めたい。

懸念

 恐れていたことが起こりつつある。
 すぐお隣の話である。「国際情勢の分析」というような暢気な話ではない。この前のNATO空爆は1999年だった。ついこの間のことだ。私はまだこういう事態にそれほど慣れていない。
 別の報道によると今回の暴動はプラスチック爆弾などを用いたかなり組織的に計画されたものだという。背後でこれを操っている主体の自己統制力が問われている。これ以上のエスカレーションを恐れる。

Kosovo Serbs have set fire to two border crossings to protest against Kosovo's declaration of independence

「学ぶ―教える」

 「○○は学ぶことはできるが、教えることのできぬものだ。」
 試みに○○の中に適切な言葉を入れてみられよ。この世のありとあらゆる営みが入ることに気づくはずだ。
 このことから分かることは、「学ぶ」と「教える」が断じて対義関係にはないということである。

「コミュニケーション能力」

 今朝10時前、掃除のAlbenaと久しぶりにトイレで顔を合わせた時――後期は一番早いクラスでも10時なので彼女に会うことは少なくなったのである――、掃除中だと気づいて出ようとしたら彼女は何か早口で二言三言言ってすぐに出て行った。その中で僕が理解できたのは"много(とても)"という副詞だけだった。
 しかし、彼女の表情と身振りから「いや私が出て行くからいい。床が滑りやすいから気をつけて。」というようなことを言いたいのだということは即座に分かった。誰かあとで彼女に確認してくれてもいいが、私はこの解釈に100%自信がある。
 僕の言う「コミュニケーション能力」というのは、彼女がいつも発揮するこういう種類の能力のことなのである。それは目標言語の単語をいくつ知っているか、とか、文法にどれほど詳しいか、ということとはほとんど――まったくと言っていいほど――関係がない種類の能力だ。
 そして――いや、しかし、と言ったほうがいいのか――、それは、スキルとかタスクというようなものでも説明し切れぬものであるような気もするのだ。しかし、よく分からない。ひょっとしたら現時点では幼稚としかいいようのないそのような手法も、無限に微分化を続けていけば最終的には解決に至ることのできる問題なのかもしれない。
 要するに、よく分からない。

「成長」

 極端に言えば「日を追うごとに」学生たちが成長していることがこちらに伝わってくる。若いということはすばらしいとも思うし、そういう学生たちと日々時空間を共有できる教師という職業はすばらしい職業だとも思う。
 問題は、では果たしてこちらもそれに応えられるだけの勉強を日々しているのか、ということである。

2008年2月19日火曜日

号外

 Robbe-Grillet(ロブ・グリエ)、死す。
French writer Robbe-Grillet dies

2008年2月18日月曜日

自己批判

 BBC World Seviceには"Over To You"というコーナーがあるらしく、今はある聴取者が、なぜ大切な時間をBritney Spearsなどのような芸能ネタのために使うのか、そういうゴシップは芸能チャンネルを設けてそこで聞きたい者だけが聞くようにすればよい、World Serviceで流すな、BBCだけは他局との聴取率競争に乗ってはいけない、という意見を述べ、それに対して責任者が苦しいコメントをしていた。
 このような姿勢は、単に「お客様の声を聞く」という顧客中心主義の表れである場合だけではないと思う。普段BBCに接していて気づくのは、その底流に自己批判(組織内における相互批判)の精神が風土として根付いているということである。
 組織の質を決める要素の重要な一つであると思う。

「読者のいない小説」

FIONA: Can I look?
BRIONY
: I’d rather you didn’t. It’s private.
She puts out a hand to cover the title page, which reads: Two Figures By a Fountain by Briony Tallis.
FIONA:
I don’t see any point in writing a story if you’re not going to let
anyone read it. (Atonement, script)

 
BRIONYが書いているのは誰かに読ませるための小説でなく、「現実」を取り戻すための「虚構」である。関与したすべての人々にとっての。

号外

たった今、Kosovoの国会がSerbiaからの独立を宣言。予測どおりの行動とは言え、再びここBalkan半島がきな臭い。直接の関連があるのかどうか軽々には言えないが、Sofiaにおいてもムスリムへの嫌がらせが目立ってきたという報道もある。

爆発!

(Click the pic.to enlarge)
M1: The Crab Nebula from Hubble
Image Credit: NASA, ESA, J. Hester, A. Loll (ASU); Acknowledgement: Davide De Martin (Skyfactory)
 明日から後期開始。いっちょ張り切っていきまっしょい!

2008年2月17日日曜日

 今朝のSofiaの街は久しぶりにうっすらと雪化粧している。美しい。
 この程度の積雪だと迷惑を受ける人も少ないだろう。

"Taste of Cherry"

 Abbas Kiarostami、1997年作品。
 何度見ても魅力尽きない作品だが、今回は、クルド人兵士、アフガニスタン人の神学校生徒、トルコ人教授とのそれぞれの対話を経て、主人公のイラン人が結局は自殺を思いとどまったのではないかと観る者の内にかすかな期待を生じさせて終わるという設定の中に、監督が込めた「希望」を見た。
 これは「つくりもの」ですよ、といういつものメタ・メッセージの伝え方がこの作品では特に顕著なのも面白い。それは本当にこの作品が「つくりもの」だからだ。
 この人やAngelopoulosの作品を観るといつも、人間の相互理解において「映画」という媒体は実に魅力的な媒体だと思う。
 学校で「国際理解」だの「異文化理解」だのの授業でつまらないことばかりやってないで、彼らのような優れた映画作家の作品をもっともっと子どもたちに見せればよいのに、といつも思う。「世界史」「地理」「倫理」等の科目でもよい教材になるはずだ。そのためには教師も勉強しなければならない――そしてそれが最大の困難なのかもしれない――が、まず教師の側が内的に成長していないくせに子どもたちにだけ成長を要求してもそれは土台無理な話なのである。

日本学入門テクスト

 日本学を目指す諸君は、漫画ばかりでなく、せめてこの程度は読んでもらいたい。
長沢利明『江戸東京歳時記をあるく』
 ウェブ上にもたまには良いものがあるという好例。

「公開捜査」

(写真クリックで拡大)
 最初の2枚は2年前キエフで借りたアパートの居間の壁に掛かっていた物。次の2枚は昨年末ローマのある広場の露店。
 これらはどういう由来のもので、どういう意義付けをされているものなのだろうか。
 どうだろうか。「吉兆」を付けた、日本の「飾り熊手」や「福笹」に共通するものが感じられないだろうか。
 どんなことでもいいので、何かご存知の方は教えていただきたい。

2008年2月16日土曜日

「或阿呆の一生」

 芥川龍之介、35歳。死へのブログ。

きょうの大発見

curmudgeon [ k()md()n ]。つむじ曲がり。気難し屋。意地の悪い人。意地悪爺さん。けちん坊。。。
 ね、ぴったりでしょ。それに音も似てる。「コマちゃん」。

嗤うべき人々

 自分の命令で無理矢理作らせた銀行の「破綻」の責任さえ取ろうとせぬ知事、及び1300億円騙し取られたも同然なのにそれでも信任し続ける有権者たち。
 イラクで見つけた栄養失調の子犬を「大救出作戦」によって自国へ搬送した軍隊。
 パンは硬いほうがうまいと調子に乗って食べていて歯茎を痛めた中年日本人。

ラオスの塩

 切れたのに駒田がいなくなって日本で困っている方、Liaisonで買えます。どうぞご贔屓に。

シニシズム

 Cynicという言葉は古代ギリシャ語のκυνικός (kunikos)から来た。「犬のような」という意味だ。
 あるキニク学者が言ったという。
 「他の犬は敵に噛みつく。私は友を救うために友に噛みつく」
 と。。。

Atonement

Bobbieの(恐らく)最後の書簡。そしてそれは「実現」する。
"The one I had been planning on that evening walk. I can become again the man who once walked across a Surrey park at dusk in my best suit, swaggering on the promise of life; the man who, with the clarity of passion, made love to you in the library. The story can resume...I will return. Find you, love you, marry you, and live without shame."

2008年2月15日金曜日

髭剃り

 ByronはDon Juanの中で女性の分娩と男性の髭剃りの苦しみを「原罪」に対する罰と捉え、
"A daily plague, which in the aggregate
/ May average on the whole with parturition."
と言う。
 僕は数日に一回、フォームもローションも使わず2、3分肌に直接カリカリと髭剃りを走らせるだけである。
 僕がここまでお気楽に生きている秘密は僕のひげが免罪符になってくれているからのようだ。
 しかし話はこれでは終わらない。ローマ帝国の或る将軍は娘たちに髭の剃り方を習わせているとキケロがどこかに書いていた。暗殺を恐れてのことだ。
 買った恨みの数では誰にも負けぬ僕のことだ、「駒田は死んでも髭剃りを放しませんでした。」。

「エリート」と書物

東大の市野川容孝が東大出版会のメルマガに書いている文章である。当たり前のことが当たり前でなくなりつつある時代だからこそ、こういうことを敢えて言う意味がある。ソフィア大の諸君にも読んでもらいたいので、長いが引用する。
ーーー
さして教養があるとも思えない私ではあるが,9年前に着任した現在の職場は,今や化石となりつつある「教養学部」という大学組織なので,教養とは何か,ということを他人から問われたり,考えさせられたりする機会が少なくない.
私は,教養学部に入ってくる新入生に,こんなことを言ってきた.──皆さんが入学した学部の「教養」を,私たちは英語でlibe
ral artsと表現していますが,liberalとは何でしょう.
受験の英単語では
「自由な」という訳語が,まず最初に来るかもしれませんが,この英語には「寛大な」「私利私欲にとらわれない」という意味もあって,皆さんにまず覚えてほしいのは,こちらの意味です.liberalというのは,つまり,自分とはさまざまな意味で異なる他者に対しても,心を開き,想いをはせることのできる生き方や想像力のことであり,それらを培うことこそが,皆さんがこの学部で身につけるべきliberal arts(教養)なのです,と.
教養とは,お高くとまったり,物知りを鼻にかけることではない.
相手が東大生だから,私はこのことを強調する.「東大生もフツーの若者なのに」と言うなら,嘘をつけ
,と私は言ってやる.同世代の仲間を何人も蹴落として入学してきた連中が,フツーだとは私は思わない.「それは裏返しのエリート主義だ」と言うなら,半分は同意する.
実際,文部官僚も「教養学部は,東大レベルにだけ残せばいい
」と思っているようだから.
しかし,エリート主義が,裏返りもしなかったら,どうなるのか
.選抜された連中が,選抜されなかった同胞に何ら想いをはせず,自分のことだけを考えるように仕向けたいのか.
私は,それは間違っていると思う.他者への想像力は
,一握りの人間だけがもてばいい,という考え方と同じくらいに間違っている.
書物というのは,他者への想像力を培うための,唯一の
,では決してないが,一つの重要な回路である.分かりづらい書物を読む(書く,ではない!)ことほど重要なのだ.
なぜなら,他者は常に分かりづらいものだから.
分かりやすい本は,よく売れるけれども,そこで人が出会うのは自
分か,自分に似ているものだけである.そこで人が手に入れるのは,他者へと身を開いていく教養ではなく,どこか排他的なナルシシズムである.
書き手や作り手だけで,書物を復権させることはできない
.他者へと身を開いていく勇気と想像力をもった読者が,そこにいなければならないのだと私は思う.

『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』

 小津安次郎1932年作品。言わずと知れたサイレント時代の傑作。小津の特徴である固定カットが確立された記念碑的作品としても知られる。
 驚くほどよくできた作品である。小津の天才が遺憾なく発揮されている。
見方によってはベストの作品とも言えるのではないか。彼は1959年に『お早よう』をリメイクしているが、完成度にはかなりの差がある。
 これはまだ未確認の推測に過ぎないが、Kiarostamiが小津に傾倒していることには、この作品に見られる子どもの使い方も深い関連をもつのではないだろうか。
 一つ分からないシーンがあった。家族の食事を整えた「お母ちゃん」が徐に割烹着のポケットからトランプのようなものを取り出しお膳の下でシャッフルする。何しろ76年前(!)の作品である。早く解明しなければ永遠の謎となってしまう。

インターネット・ラジオ

 TVが壊れたらしく、管理会社に見に来るように言ってあるのだが、約束していた昨日も来ないし今日も来なかった。連絡さえない。
 この程度のことではもう腹も立たなくなっているが、その副産物もある。
 このブログを始めた1年近く前から読んでくださっている方は覚えてらっしゃるだろうか。BeethovenOnly.comとBBC World Service. 
 ゆっくり勉強する時は、他の音は要らないと思うほど好きなベートーヴェンを24時間流し続ける前者を聴きながら。その他の仕事の時は後者を流しながら。
 まあ、何とかかんとかやっている。

節煙

 母をはじめ、僕がタバコを吸いすぎると心配してくださっていたみなさん。
 ご安心ください。徐々に減らしてきて、最近一日4本のペースが定着しました。現在3本に向けて努力中です。
 なぜそんなことが可能になったか。。。秘密です。
 知っている人はばらさないでね。
人生には、言わぬが花、ということもあります。

2008年2月14日木曜日

表現の自由?????

 Danish Muhammad cartoon reprinted
 30年前のデンマークはヒューマニズムと人権と寛容の国だった。見る影もないとはこのことだ。

ヴァレンタイン・ローズ

(Click the pic. to enlarge)
Long Stem Rosette
Credit & Copyright: Adam Block (Caelum Observatory) and
Tim Puckett
 すべての女性への宇宙からの贈り物をお届けします。

「或阿呆の一生」

 龍之介が現代に生まれていたら、世界一のブロガーになっていたかもしれない。毎日一つずつ、こういうのを読みたいと思わないか。

2008年2月13日水曜日

武器としてのことば

 外国語の達人でもあった鷗外の洞察。ここに自身に関する内省も読み取ることができる。
 「僕は子供ではあったが、問答の意味をおおよそ解した。しかしその問答の意味よりは、・・
の自在に東京詞を使うのが、僕の注意を引いた。そして・・は何故これ程東京詞が使えるのに、お屋敷では国詞を使うだろうかということを考えて見た。国もの同志で国詞を使うのは、固より当然である。しかし・・が二枚の舌を使うのは、その為めばかりではないらしい。彼は上役の前で淳樸を装うために国詞を使うのではあるまいか。僕はその頃からもうこんな事を考えた。僕はぼんやりしているかと思うと、又余り無邪気でない処のある子であった。」(『ヰタ・セクスアリス』)

相互理解

 あなたと私が理解し合える場。それは、Dr. Cyril HallのA Child's Cyclopedia of Wonders and Things to Do.から推論すればCHRONO-SYNCLASTIC INFUNDIBULAに見出すことができる。
 ハイホー。

2008年2月12日火曜日

「聖徳太子」

 日本の学校に行ったことがある人なら誰でも知っている、一時1万円札の代名詞だった聖徳太子。どうやら捏造だったようだ。学問というものはすばらしいものだと言うべきか、いい加減なものだと言うべきか。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008021002086566.html

金持ちの旅行

 Paul TherouxのStranger on a Train: The Pleasure of Railways (1976)を読んでいたら、
 "In this sort of travel [N.B. package tour], you take your society with you: your language, your food, your styles of hotel and service. It is of course the prerogative of rich nations -- America, western Europe, and Japan."
 とあった。
 僕がコペンハーゲン大学に留学したのは1979から(嗚呼、もう30年になるのか。。。)で、確かにその頃は既に"Made in Japan"は正の意味合いで使われるようになっていたし、僕に話しかけてくる人は概ね自分の持っている日本製品を褒めることから話を始めていたように記憶している。
 しかし、
その頃ヨーロッパ内を旅行していても、今ほど日本からのパックツアーには出会わなかったように思うし、僕自身の旅行も恐ろしい貧乏旅行だった(その中でも最も過酷な旅についてはいつかゆっくり書こうね。)から、日本人旅行者を金持ちだと認識した記憶はほとんどない。
 しかし、Therouxは既にそう見ていたわけか。そうか。

アメリカ合州国の変容

 大統領予備選の様子を見ていても、明らかに大きな変動期を迎えつつある。これもその一つであろう。50年後のあの国はかなり今とは異なった貌をしているだろう。
Level of immigrants in U.S. could surpass 19th century mark

龍之介「悪魔」

 悪魔としての龍之介。血を吐く言葉。

ただ好きだからやってるだけの話ですよ。

Japan's scientific geniuses prefer their labs to the limelight
 日本列島に住む人々を理解する鍵の一つがここにもある。
 といっても、このような話を記事にする価値があると考える社会のほうが少数派なのかもしれないが。

「EUかロシアか」?

 Kosovo was not the issue
 
既にEUの一員であるブルガリアにもある程度当てはまることではないか。

2008年2月11日月曜日

Eyes Wide Shut

 完成の四日後に死んだStanley Kubrickの遺作。
 最後まで凝りに凝った作りである。観るたびに発見がある。こっちも忙しい時間を割いて付き合っているのだから、そういうものでないと困る。
 二人の「ハリウッド・スター」の気味の悪いわざとらしさも、それがそもそも狙いなのだろうと最近は考えるようになった。
 最後の作品に至るまで、失敗を恐れず「実験」を続けた、とても偉大な芸術家だと思う。

山崎元をご存知か。

 数年前から注目している人である。
 「楽天証券経済研究所客員研究員」という肩書きに騙されてはいけない。知性と人間味を兼ね備えた、日本には珍しい実力を持つ人だと思う。私はいつも彼の見解を村上龍のメルマガで読んでいるのだが、ブログも持っているようだ(もっともこのブログにおいては少しタッチが軽すぎるきらいもあるが)。日本研究者の卵のみなさんは、凡百の学者の「論文」や「一流」新聞社の「社説」などより(ましてや『ノマドの窓』なんぞより)この人の書いたものを読むべきである。
 寺島実郎といい、山崎元といい、優れた人物を経済のフィールドに見出すことが多いのは、やはり時代の産物なのだろう。

銀河の「塊」

(Click the pic.to enlarge)
Abell 2218: A Galaxy Cluster Lens
Credit: Andrew Fruchter (STScI) et al., WFPC2, HST, NASA

 これらの輝く天体すべてがそれぞれ別個の「銀河」だそうだ。
 眼も眩むとはこのことではないか。

2008年2月10日日曜日

"With my home on my back"

"Perhaps I am the turtle, able to live simply anywhere, even underwater for short periods, with my home on my back." (VONNEGUT, Kurt. Slapstick, or Lonesome no more?)

 "turtles"はたくさんいるだろう。僕もそうだ。しかし、背負っているものは人さまざまなのかもしれない。VONNEGUTの言う"home"は多義的に捉えるべきものだ。
 僕が背負っている甲羅はどういうものなのだろう。いまある自分を形作ってきた様々なものの集積、といったところだろうか。しかし、他の亀たちと同様、好むと好まざるとにかかわらず、それは脱ぎ捨てるという選択肢がそもそも存在しない類のものだ。いつでも着脱可能なものは"home"ではない。
 "home"とはそういうものだ。

Kurt Vonnegut

 いつも元気づけてくれる作家である。また思い出して、18本ダウンロードする羽目になった。
 これではいくら時間があっても足りない。早く隠居しないと。

ひとりであるということ

 ひとは どこにいても 誰といても いつも ひとりである
 しかし それは どこにいても ひとりでいても いつも あなたと共にある ということでもある
 
 このことが理解されるかどうか。ここが分水嶺だ。
 私が最も親近感を抱く人物をご存知か。
 それは
The Sirens of TitanWinston Niles Rumfoordである。
 誤解を恐れずに言うなら、私は彼のことがとてもよく分かる。

芥川龍之介

 ここのところ漱石・鷗外・龍之介を精力的に読んでいて、こと龍之介に関しては、玉石混淆、書き散らし過ぎ、などと何度も思っていたのだが、「或旧友へ送る手記」をきょう読み返して、改めて心を揺すぶられ、また改めて彼が35歳で自殺していることを想い、そんな若さで自ら命を絶った人に対して今さら何か要求するというのは、何だかフェアではないような気がした。
 彼に関する悪口は少し控えることにする。

2008年2月9日土曜日

ハンガリーのロマ

 NYTimesが取り上げている。いずこにおいても道は険しい。しかし、おさまりかえっていて済む問題ではない。
In Hungary, Roma Get Art Show, Not a Hug

Lust, Caution

 ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を取った作品だというから見たが、失望した。何か褒めるところを探したが、思いつかない。
 脚本においてもプロットにおいても無理のある、或いは不可解な点が目立つ。過剰な「オリエンタリズム」ポルノシーンを完全削除の上、テレビの「大河ドラマシリーズ」に放り込んでおけばよい。映画である必然性は全くない。

2008年2月8日金曜日

「東洋」と「西洋」

 一体我々はどうして、いつから、このような野蛮な二分法に毒されてしまったのであろう。
 ブルガリアに来て半年を過ぎ、私はその「野蛮」から少しずつ抜け出すことができてきたように思う。
 今夜も、Kun-Woo Paikのブラームスを聴きながらそう感じた。

宇宙のウインク

(Click the pic. to enlarge)
NGC 4013 and the Tidal Stream
Image Credit & Copyright: R Jay Gabany (Blackbird Observatory) - collaboration; D.Martínez-Delgado(IAC, MPIA),
M.Pohlen (Cardiff), S.Majewski (U.Virginia), J.Peñarrubia (U.Victoria), C.Palma (Penn State)

2008年2月7日木曜日

ナショナリズム

 Spain struggles to tackle sport racism
 イングランドのフットボール・フーリガンの武器は「暴力」で、スペインの自動車レースファンのそれは「人種差別」だというだけの話。
 いずれにしろたった450年ほどの歴史しかない「はやり」のナショナリズムを振り回しているだけの話だ。
 スペインの愚かさを糾弾する資格は誰にもない。

経済・所得格差

 知る人ぞ知るロンドンの丸国葉さんによれば、ロンドンでは交通渋滞緩和と大気汚染改善を目的として、平日の市内に入る車に対してcongestion charge(混雑料徴収)を始めており、高級大型車や四輪駆動車など排気量の大きな車に対しては一日当たり25ポンド(約5300円)になる予定だという。それでもあまり効果が期待できないという見方が多いそうだ。その程度では痛くもかゆくもない高額所得層が増えているからだ。
 やはり、世界はおかしくなっている。

先験的実在性の有無

 Monty PythonのInternational Philosophy
 ギリシャ対ドイツ。ニーチェがイエローカードを受けたり、アルキメデスだったかアリストテレスだったかのセンタリングを受けたソクラテスが見事な決勝ダイビング・ヘッドを決めるとそれに対しヘーゲルが「それには先験的実在性がない」と主審の孔子に抗議したりしている。

2008年2月6日水曜日

記憶と文明

 ブリテン人の23%はWinston Churchillが実在の人物だとは思っていないという。日本も米国もよそのことをとやかく言えないことは各種の調査を垣間見ればすぐ分かる。
 重要なことは筆者のように「国家」や「民族」や「西洋文明」の灯を絶やすなと嘆くSectarianism(いつまでその愚を繰り返すのだろう。その自文化・自民族中心主義が人類の負の歴史を全面的に形成してきたことになぜ気がつかないのだろう)に陥ることではなく、よりメタのレヴェルから「記憶」を掘り返してゆくことだ。
 
Western civilization, and other fairy tales

Monty Python’s "The Meaning of Life"

 1983年作品。彼らのSketch comedyの集大成とも呼べるであろう最後の映画作品。
 Monty Python's Flying CircusがBBCで始まったのが1969年だからMonty Pythonの本格的な誕生はほぼ40年近く前に遡ることになる。
 ほぼ20年ぶりに改めて観て感じたことは、この鋭さ・下品さ・ブラックユーモアが間違いなく僕(の世代)の内面の一部を形成しているということである。
 これは紛れもなく自分(たち)の映画だと感じられ一方で、現在から見ると陳腐に感じるシーンが多いようにも思うのは、the Pythonsの世界が既に多分に僕(たちの世代)に内面化されていることを示すのかもしれない。
 他方で、彼らがとても好きだという人に僕がこれまであまり出会ったことがないのは、僕(の世代)が他者に理解されにくい原因の一つをも示すのかもしれない。
 スティル付きスクリプトはここ

2008年2月5日火曜日

一本1845万円?

東大の論文、一本1845万円

 前任の大学では一人当たりの基本研究費が年間(!)30万円程度だったことを思い出した。そう考えると、特に理系のみんな(僭称者を除く)はよく頑張ってたね。

 竹内淳・早稲田大教授は「少ない費用で優れた成果を出している地方の国立大にも研究費を正当に配分するような制度に変える必要がある」と言う。こういう当たり前の正論を聞かなくなって久しい。

2008年2月4日月曜日

Hardtalk

 Stephen SackurがStuds Turkelにインタヴューしていた。人類の良心を体現する二人の「問い質す人」の間に繰り広げられる、世代を超えた対話。
 言葉の力。批判の力。

一瞬の輝き

(Click the pic. to enlarge)
Light Echoes from V838 Mon
Credit: NASA and the Hubble Heritage TeamAURA/STScI)
 2002年1月観測。V838 Monはこの瞬間だけ銀河系で最も輝く天体となった。原因は解明されていないという。

2008年2月3日日曜日

Emmanuelle Haïm

 Mezzoを流しながら仕事をしている時、ごくたまにではあるが、演奏に引き込まれて仕事にならないことがある。きょうも久しぶりにそういうことがあった。
 彼女のチェンバロと指揮は、ピリオド奏法が、古楽器でなくとも十分に、いやそれ以上に演奏効果を高めるという信念に基づいているかのような、歯切れのよい、ドラマティックな演奏を生み出している。
 彼女の演奏が続いていた1時間あまり、すっかり聴き惚れていていた。
 すばらしい経験をすると、生きているということもまんざら悪くもないと思う。

別人になること

BRIONY: Cee?
CECILIA: Yes.
BRIONY: What do you think it would feel like to be someone else?
CECILIA: Cooler, I should hope.
(Atonement, script)

 このやりとりは結末への重要な伏線の一つとなっている。

「筋書き」を書くこと

BRIONY: Perhaps I should have written Leon a story. If you write a story, you only have to say the word ‘castle’ and you can see the towers and the woods and the village below... But in a play it' s...it all depends on other people. (Atonement, script)

 そして彼女が他ならぬその「物語」を「書いた」ことにより、他者たちのほうがその物語に翻弄され、螺旋状に悲劇が展開してゆく。

脚本

 を見つけました。英語を勉強している方、下らないテクストでいやいや「お勉強」をするより、こちらの方がよほどおもしろいと思います。もちろん映画も見てね。随分性格の異なる2作品ですがどちらも必見です。
"Atonement"
"No Country for Old Men"

金星と木星

(Click the pic. to enlarge)
Credit & Copyright: Babak Tafreshi (TWAN)
 カスピ海の夜明け。金星と木星だそうです。ここ2,3日は地球上のどこからでもこれが見られるそうです。早起きしてみましょう。

2008年2月2日土曜日

夢中夢

 楽しい夢を見ていて、「ああ、子どもが僕が寝ながら笑っている時があると言うのは、こういう夢を見ている時なんだろうな。いまベッドの上の僕はケラケラ笑っているんだろうな。」と思いながら笑っていると、目が覚めた。
 肝心の「楽しい夢」の内容だけは覚えていない。

2008年2月1日金曜日

「あらたにす」

 朝日・読売・日経の共同事業が始まった。その名もあらたにす
 これまでお行儀のよい微温性から一歩脱却しようというその姿勢は評価したいが、記事をただ並べるだけなら誰にでもできる。重要問題に関しては三社の論説委員が討論してそれを掲載してはどうか。「切磋琢磨」と言うなら、それぐらいやらなければ意味がない。