2008年2月15日金曜日

「エリート」と書物

東大の市野川容孝が東大出版会のメルマガに書いている文章である。当たり前のことが当たり前でなくなりつつある時代だからこそ、こういうことを敢えて言う意味がある。ソフィア大の諸君にも読んでもらいたいので、長いが引用する。
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さして教養があるとも思えない私ではあるが,9年前に着任した現在の職場は,今や化石となりつつある「教養学部」という大学組織なので,教養とは何か,ということを他人から問われたり,考えさせられたりする機会が少なくない.
私は,教養学部に入ってくる新入生に,こんなことを言ってきた.──皆さんが入学した学部の「教養」を,私たちは英語でlibe
ral artsと表現していますが,liberalとは何でしょう.
受験の英単語では
「自由な」という訳語が,まず最初に来るかもしれませんが,この英語には「寛大な」「私利私欲にとらわれない」という意味もあって,皆さんにまず覚えてほしいのは,こちらの意味です.liberalというのは,つまり,自分とはさまざまな意味で異なる他者に対しても,心を開き,想いをはせることのできる生き方や想像力のことであり,それらを培うことこそが,皆さんがこの学部で身につけるべきliberal arts(教養)なのです,と.
教養とは,お高くとまったり,物知りを鼻にかけることではない.
相手が東大生だから,私はこのことを強調する.「東大生もフツーの若者なのに」と言うなら,嘘をつけ
,と私は言ってやる.同世代の仲間を何人も蹴落として入学してきた連中が,フツーだとは私は思わない.「それは裏返しのエリート主義だ」と言うなら,半分は同意する.
実際,文部官僚も「教養学部は,東大レベルにだけ残せばいい
」と思っているようだから.
しかし,エリート主義が,裏返りもしなかったら,どうなるのか
.選抜された連中が,選抜されなかった同胞に何ら想いをはせず,自分のことだけを考えるように仕向けたいのか.
私は,それは間違っていると思う.他者への想像力は
,一握りの人間だけがもてばいい,という考え方と同じくらいに間違っている.
書物というのは,他者への想像力を培うための,唯一の
,では決してないが,一つの重要な回路である.分かりづらい書物を読む(書く,ではない!)ことほど重要なのだ.
なぜなら,他者は常に分かりづらいものだから.
分かりやすい本は,よく売れるけれども,そこで人が出会うのは自
分か,自分に似ているものだけである.そこで人が手に入れるのは,他者へと身を開いていく教養ではなく,どこか排他的なナルシシズムである.
書き手や作り手だけで,書物を復権させることはできない
.他者へと身を開いていく勇気と想像力をもった読者が,そこにいなければならないのだと私は思う.

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