2008年2月24日日曜日

教えること

 お隣ブカレストのCASA LUI HIRAMIEさんが先日の私の記事を受けて書いていることを読んで衝撃を受けた。
「新学期の内省レポート」
 一部を引用する。
「私は、言語学習を通して、講義によって答えが言い放たれ、それを受容していく銀行貯蓄型、議論によって他者との関わりの中で自分で答えを見出していく対話型、の二つの学習へのアプローチを経験しましたが、学びの効果はともかく、前者がより不安のない教授スタイルであるという事実は、「教える」ことへの自問を始めてからも変わっていません。ビリーフというのは厄介なものですね。理想の実践に手が届かない感覚が常にあるのは、こうした昔の古傷ともいえる観念が体全体にしみ込んでいるからかもしれません。

 私はこんなにまっすぐに考えたことがなかったという事実と、私がひとには「対話型」の学びを唱導していながら、実は自分自身の教授スタイルは徹頭徹尾「伝達型」(hiramieさんの用語で言えば「銀行貯蓄型」)であることに今更ながら気づいた、ということ、この二つに衝撃を受けたのである。私の長年の苦しみの原因を教えてもらったという衝撃でもある。
 教えるということは、「規則」を教えるということだ、とWittgensteinがどこかに書いていた(ような記憶がある。『哲学探究』だったかな。)。コミュニケーションとは規則を教え合うことだ、と柄谷行人もどこかに書いていた(ような記憶がある。『探究Ⅰ』だったかな。)。
 私の長年の苦しみは、上段から自分の「規則」を言い放ち、それに対して学生が自分たちの規則を提示してこないために、「規則を教え合う」という事態がなかなか成立しない苛立ちと不即不離のものであった。引用した記述は、「対話型」を目指そうと学生たちには言いながらしかし実際には自分の規則を押し付けるばかりであったのだ、ということに気づかせてもくれたのである。
 しかし、だからといって、では本日より「対話型」の人間に生まれ変わります、というような話にはならない。残念ながら。
 教師には、大げさに言えば、命がけで守っている、自分の規則がたくさんある。それらの規則はいったん棚上げにしておいて「さあ、みなさんの規則を教えてください。私はそこから学びたいと思います。」とにこやかに「教師スマイル」を毎日振りまいているぐらいなら、教師などやめたほうがよい。

 私も命がけで話しているのだから、あなたも命がけで話してください。

 というわけで、私は明日からも、栄光のSofia大学の教壇をお借りして、上段から自分の規則を言い放ち続けるのである。いつか誰かが引き摺り下ろしてくれる日まで。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

「「対話型」を目指そうと学生たちには言いながらしかし実際には自分の規則を押し付けるばかりであったのだ」

私もここに違和感を感じ続けていました。でも、「自分の規則がたくさんある。それらの規則はいったん棚上げにしておいて・・・」のくだりを読み、確かに棚上げをして耳を傾けるだけでは、日本語教師の使命を放棄しているにすぎない、と気づかされました。

私も命がけで話し、学生が命がけで話すことに価値を見出すように、また暗闇を模索して行こうと思います。

ここでのやりとりも、ある種の「対話」のように思います。今日感じていることが、私の学びにつながってくれますように。

KOMADA, Satoshi(駒田聡) さんのコメント...

「ある種の」どころか「あるべき」対話が展開していると思います。
ありがとう。