2008年3月30日日曜日

芥川龍之介「猿蟹合戦」

 「厭世的」という言葉にも馴染まない、何か得体の知れぬ、底知れぬ暗さを感じ取るのは私だけだろうか。

Washington, D.C.の桜

 ポトマック河畔の桜も満開のようである。
 100年近く前、日本の桜の美に魅せられた一人のアメリカ人女性ジャーナリストの努力により移植され、以来、大変な時代もあったが、日米両国民の友情の証とされてきた。今年もアメリカのニュースでもとても温かく紹介されている。
 陳腐だ何だと言われようが、桜と富士山の二つが醸し出す優しいイメージが日本をいかに救っているかということを実感する。
 あ、僕も救われてます。あんな美しい国の人なんだから、あれでも根は優しい人なんじゃないの、とか。

“Can you believe it! He hadn’t even heard of Pushkin!”

これは笑える。
It’s Not You, It’s Your Books

歴史。ほんの少し前の。

Out of East Germany via Bulgaria

サマータイム開始

先ほどサマータイムに入った。時計を1時間進めた。

ブルガリア語-日本語-ブルガリア語フリーオンライン辞典

 ドメインを取得しました。新しいURLはhttp://jiten.eu/select_modeです。まだ日本文字が文字化けする問題などが残されていますが、一歩一歩着実に発展しています。

研究会また一つ

 気鋭の研究者たちに促され、ソフィアにまた一つ研究会が生まれる。まず丸山眞男の「歴史意識における〈古層〉」を読む。
 ソフィアに日本研究の新しい波が生まれようとしていることを喜びたい。関心のある方はご連絡いただきたい。ただし使用言語は日本語である。

螺旋銀河NGC 2841

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Credit & Copyright: Johannes Schedler (Panther Observatory)

2008年3月29日土曜日

夏目漱石『こころ』

 読了。「お嬢さん」への思慕をKが「私」に告白するあたりからの急流のようなダイナミズムは日本文学の中でも白眉だろう。
 
それにしても、今回はこれまでのどの時よりも、まるで自分自身が穿たれているような想いで読み進んでいたことに、我ながら驚いている。

Leaving Las Vegas

FIGGIS, Mike(1994)作品。
ふだん公言している好みとは異なる傾向の作品なのだが、この作品は何度見ても惹かれる。芸術的にどうこうというレヴェルの話ではない。大げさに言えば、いつも「のめりこんで」見てしまう。僕の持っている「弱さ」のどこかの部分に触れるところがあるのかもしれない。
脚本を手に入れたので読んでみる。

2008年3月28日金曜日

芥川龍之介「猿」

 これも、深奥に届きそうでありながら、最後まで焦点を絞りきれずに終わってしまうもどかしさのようなものを残す、龍之介に散見される作品の一つである。

Svetlikをはじめとする折り紙ファンの皆さんへ

Origami planes may blaze path for new spacecraft

今日の混沌。美。

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2008年3月27日木曜日

ブルガリア・ソフィアの町にかかる虹

 色々探したがこの写真が一番よかった。
 24
日月曜日。本物の虹は、同じ建物で講義中の同僚がそれを中断してこれも授業中の私に知らせに行こうかと迷ったというほど美しいものだったようだ。私も学生たちも全く気づかなかった。私たちのいた講義室から見えない方角だったのだろう。
 私の学生たちのためにも、彼は知
らせに来てくれるべきだったと思う。

混沌。美。

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The NGC 3576 Nebula
Credit & Copyright: Ken Crawford (Rancho Del Sol Observatory), Macedon Ranges Observatory

Да не знаеш

нищо е по-добре от това да знаеш малко.(Aozora)
 そして、不幸中の幸いは、自分が何も知らないということを知っていることである。

2008年3月26日水曜日

森鷗外「伊沢蘭軒」

「・・・要するに、折衷に満足して考証に沈潜しない。学問を学問として研窮せずに、其応用に重きを置く。即ち尋常為政者の喜ぶ所となるべき学風である。
 蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。窃に思ふに只蘭軒をして能く拘儒
たることを免れしめただけが、即ち此学統のせめてもの賚ではなかつただらうか。」

 御用学者も衒学者もどちらも駄目だ。それをこういう所にさらりと書く。鷗外らしい。

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Credit: Rainer Zmaritsch & Alexander Gross
 左に見えるM81銀河と右のM82銀河は過去十億年に渡って「重力戦争」を続けているそうだ。食うか食われるか。あと二、三十億年後にはどちらか一方しか残っていないだろうという。
 この写真を、どこかの取るに足らぬちっぽけな星の上で殺し合っているクズどもに贈る。

 京の都から、桜の便りが、卒業の報告が、次々と届く。
 Sofiaも春だよ。今日は霙だけどね。厳しい冬を乗り越えての春は喜びも一入だよ。

京都教育大学日本言語文化専攻卒業生諸君

 卒業おめでとう。京都は開花したそうですね。
 霙の降りしきるSofiaの空から皆さんの前途を祝します。

2008年3月25日火曜日

芥川龍之介「煙草と悪魔」

 彼はなぜこれほどまでに「悪魔」にとり憑かれているのだろうか。

「知識人」

Tom Wolfe: an intellectual is a person knowledgeable in one field who only speaks out in others.
Richard Posner: a successful academic may be able to use his success to reach the general public on matters about which he is an idiot.
 これらの一見もっともらしいポピュリズムを私は軽蔑する。
 私は決して「知識人」ではないが、かと言って「民主派」でも「庶民派」でも「プロレタリアート」でもない。

東大卒の「人生格差」 100人の転職、年収…

『AERA』2008年3月17日号
自由課題にするので、Sofia大学の学生で希望者はこの記事に関するレポートを提出してください。

2008年3月24日月曜日

「慣れる」

 ユーラシアのここから少し東北のほうから、以下のような意味のコメントをいただいた。今Bloggerのコメントシステムは少しおかしいらしく、メールでいただいたものを転載する。

1.好きなことを自由にできるようになった者は
、いつもどんな場所にも早く慣れることができる
2.
自分のしたいことがはっきりしていると、「周囲に慣れる」ことなんかを考えている暇がな

「慣れる」ということの意味を本源的に考えるためのいいヒントになる発言だと思う。今日は時間がないが、またゆっくり考えよう。他の方からもご意見をいただきたい。

ユーラシアの記憶

 一昨日のПърва пролет
 めでたいだけでなく、紀元前の遥か昔、ゾロアスターにまで遡る由緒正しき伝統らしい。もう少し調べてみるが。

いつもながら東京新聞社説のこういう浪漫主義はなかなか魅力的である。
週のはじめに考える 春の風が吹いていたら

芥川龍之介「煙管」

 龍之介にしては完成度が低い。もっと緻密に書ける人である。

2008年3月23日日曜日

奇説、しかし壮大な

 傀儡子とロマ系の人々とが起源を同じくする人々だとする説があるようだ。
 しかし、残念ながら現時点では資料が少なすぎて、研究対象にならない。
大江匡房の『傀儡子記』と、あとは『今昔物語』や『十訓抄』等に残る記述ぐらいしか資料らしい資料がない。
 所詮は「お話」のレヴェルだが、しかし夢のある話ではある。

Roberto Bolaño

The Insufferable Gaucho
なぜ僕はこれほど彼に惹かれるのだろう。

内田光子

 ウィーン・フィルとの競演。
 ラトル+ベルリン・フィルとの時にも感じたことだが、現在この人ほどオケとの「協」奏で真価を発揮するピアニストはいないのではないか。
 ますます磨きのかかってきた感のある確かなタッチと叙情性から成る構築力も本当にすばらしい。
 モーツァルトの長調の持つ「哀しさ」を現在ここまで表現できる人は他にはいない。

「慣れる」こと

 hiramieさんの海外生活に慣れること―異文化適応に関する一考察その1-
を読んで考えた。それにしても彼女はよく色々な事を考えさせてくれる、いい教師である。学生たちのためにも、もっと頻繁に更新していただきたいものである。
 さて、考えてみると、僕は「ブルガリアでの生活にはもう慣れましたか?」という彼女(の場合はルーマニアだが)がよくされるという質問を、この8ヶ月で数えるほどの人からしかされたことがない。それも殆ど初対面の人か、普段深い付き合いがない人ばかりからだ。
 これにはいくつかの理由が考えられる。
 まず、僕の付き合いの範囲が狭いこと。
これはブルガリアに始まったことではないが、ここに来てから一度でも言葉を交わした人の数は100人を超えないのではないか。
 それから、どうも僕はここではそもそも「慣れる」ということを期待されていないのではないか、ということ。それがなぜなのか美しい理由が思いつかないが、僕のことよりも「子どもさんはいかがですか。もう慣れましたか。」と子どものことを聞かれるほうが多いということが一つの傍証ではある。
 最後に、二つ目とも関連するが、僕自身がここに「慣れよう」としていないのではないかということ。hiramieさんのルーマニア語の能力と比較することさえ無意味なほどの僕のブルガリア語の「能力」(とさえ呼べないレヴェル)は我ながら感動的でさえある。これは端的に意欲の欠如が原因であると言われても仕方がない。
 しかし、僕はここの社会が、街が、人が、とても好きなのである。好きなのに相手を深く理解しようとしていないのはなぜか。
 「ノマドだからでしょ。」というキエフ辺りから聞こえてきそうな、簡単かつかなり肯綮に中りそうな解答は別として、少数の心ある人々を不審がらせているであろう疑問を、実は僕も共有しているのである。

2008年3月22日土曜日

記憶

 きょう、ふと思いついてやってみた。
 パンを小さくちぎり、皿に敷いた砂糖に押し付けて食べる。
 砂糖をできるだけたくさんつけたくて力任せに押し付ける。食パンの側の接触面を舐めるズルをすると汚いと言い合って兄弟げんかになる。
 幼稚園から小学生時代にかけて、うちでは贅沢なおやつだった。
 そのような時代の記憶を共有する者がどんどん減っていき、その記憶が単独性を強めていくこと。これも老いということなのかも知れぬ。
 すぐに言い足さねばならないが、これは決して今私が弱っているという報告ではない。断じてない。

「ノスタルジア」

 最近我ながら意外に感じているのは江戸期の文芸・演劇・版画への「更新された愛着」である。他の時代や、江戸期でも他のジャンルに対しては上記のものほど惹かれない。
 この意識も分析してみると面白いかもしれない。
・Fleeting Pleasures of Life in Vibrant Woodcut Prints
・Diversions and Delights From the Floating World

Was he pretending to be jealous to conceal the fact that he was?

 「この人は、自分が嫉妬しているということを隠すために、わざわざ嫉妬しているふりをしていたのだろうか。」
 私はこういう一文にコロリと参ってしまう。
 Ian McEwan, Atonement.

Първа пролет

 今日はПърва пролетだそうである。訳すと「春の最初の日」になるのかな。それとも「春の始まり」のほうがいいのかな。
 昨日が春分だったから(それともGood Fridayだったから?)その翌日の今日が春の始まりということかな。
 いずれにしてもめでたい日である。

芥川龍之介「永久に不愉快な二重生活」

「元来芸術の内容となるものは、人としての我々の生活全容に外ならないのだから、二重生活と云ふ事は、第一義的にはある筈がないと考へます。

 が、それが第二義的な意味になると、いろいろむづかしい問題が起つて来る。生活を芸術化するとか、或は逆に芸術を生活化するとか云ふ事も、そこから起つて来るのでせう。」

生と切り離された何ものも意味あるものと認めないこと。

龍之介が死なねばならなかったのも、彼がこれほど人々に愛されているのも、その理由の一つはこれである。

2008年3月21日金曜日

芥川龍之介「影」

 読者が作家を哀れに思わねばならぬ作品は読んでいてつらい。余りにも痛々しい。

N. D.

World's best-known protest symbol turns 50.
ある人々にはその青春と不可分に結びついた表象であり、ある人々にはその存在さえ認知されていない「マーク」。50年。

「無態度の態度」

 我儘勝手な道を行けばよい。道に迷ってもよい。進退窮まったら棄てればよい。意に任せて縦に行き横に走る間に、いつか豁然と視野が開けるかも知れぬ。
 要するに行き当たりばったり。このようないい加減なやり方を
 「これを無態度の態度と謂ふ。」
 と、苦虫を噛み潰したような顔のまま、しらっと言う。
 わたしは、鷗外のこのような一般には理解してもらえぬであろう独特のユーモアを愛する。

取り戻すこと

 Ian McEwanのAtonementは全編「取り戻すこと」をめぐって展開する。

 既に壊れてしまい、二度と元には戻らぬものを取り戻すこと。
 既に過ぎ去ってしまい、二度と取り戻せぬ過去を取り戻すこと。
 既にこの世になく、二度と生き返らぬ人を取り戻すこと。

 絶対に不可能なことを可能にすること。

 そしてそれは文学にのみ可能であるとMcEwanは確信しているかのようである。

2008年3月20日木曜日

浅田次郎

 先日は少し褒めすぎたかもしれない。短編集『姫椿』を読了したが、光っていたのは「マダムの咽仏」ぐらいで、残りはすべて「いい話」「ほろっとさせる話」の次元に留まっている。文学でなく、TVドラマのレヴェルである。

「運」読了。

提案。公務が終わったのちに創設する計画のAgora Sofia(仮称)では、芥川と彼が拠った『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などとを読み比べる読書会もやりたくなってきた。もちろんお遊びでなく、まともな学者に来てもらってだよ。

 この街に暮らしていると雨や雪を好きになる。
 ロマンチックな理由だけではない。空気中の埃や土煙、排気ガスなどを除去してくれるという実利的な理由もある。喉(だけ)が弱い私にはありがたい存在だ。
 特に雪は、ゆっくりと、この世の穢れのすべてを一身に引き受けながら地上に降り立ってゆく、その姿がよい。

2008年3月19日水曜日

積雪

 もう春だと思っていたが、甘かった。

「世界」

 ミトロヴィツァの流血。
 現在の原油価格さえ把握していない大統領の夜中の3時のタップダンス。
 
ラサの流血。
 「セレブ」どもの離婚慰謝料争い。
 ガザの流血。
 生臭坊主の政治的駆け引き。
 バクダッドの流血。

2008年3月17日月曜日

芥川龍之介「芋粥」

 名品。同じように憐れな小役人たちを描いたドストイェーフスキイの短編群との比較研究(それぐらいあるだろう)を読んでみたくなった。

Stanford Encyclopedia of Philosophy

哲学も負けてないよ。
Stanford Encyclopedia of Philosophy 
これも質が高く、無料。
言語学でもこういうのあったっけ? 地球上のすべての語彙の収録を目指す、とか。。。。なさそうね。

Encyclopedia of Life

Encyclopedia of Lifeがスタートしました。世界の第一線の研究者たちが協力し、地球上の知られている全生物を掲載する計画だそうです。もちろん無料。いい時代になりました。

2008年3月16日日曜日

「芸」

ゲイのカオルがマーちゃんに言う。
「とりあえず何かになるっていうのは、あんがい簡単なのよね。嘘をつけばいいんだから」
「嘘、ですか」
「嘘でもハッタリでも、肚をくくっちゃえばいいんでしょう。そしたらなれるわよ。役者でも、医者でも、オカマでも。もしかしたら総理大臣にだってなれるわ。でも、とりあえずそうなってから、そのさき本物になるっていうのはものすごく難しい。それが、芸っていうやつじゃないのかな。あたしがさっき、もう自信がないって言ったのはね。つまりそういうこと。嘘をつき続けて芸にしちゃえるほど、根性も才能もないわ」
(浅田次郎「マダムの咽仏」)
 「嘘」をつき続けて「芸」にしてしまうこと。最近このブログでも話題になっていた「教育」や「教師」をめぐる問いへの解が一つここにもある。

浅田次郎「マダムの咽仏」

 『オール讀物』1999.6月号、または『姫椿』(文藝春秋)所収。日本語を解する若い皆さんはこの作品名を覚えておいて、50の声を聞く頃になったら一度読んでみて下さい。今読んでも無駄ですよ。理解できるはずがありませんから。
 それにしても、日本文学の翻訳家たちは浅田次郎を翻訳しているのだろうか。ちょっと調べた限りでは『鉄道員(ぽっぽや)』以外は翻訳されていないような気がするのだが。作家本人に魅力がないとは思えない。「小説の大衆食堂」と自称するが、安くてうまくて温かい食堂が愛されるのは世界のどこでも同じはずである。

「帷を下す」

 鷗外「伊沢蘭軒」のお陰でまた一つ言葉を知った。『大辞林』によれば「塾を開いて教える」意で、漢の董仲舒がとばりを下げた部屋で勉強や後進の指導を行い、三年間庭を見なかったという「史記(儒林伝)」の故事によるという。
 特に「三年間庭を見なかった」の箇所に反応する自分を見るのが面白い。
 
董仲舒の足下にも及ばぬ事は承知の上で、この公務の任期満了の暁には自分も、と夢想する。

2008年3月15日土曜日

Sophocles, The Oedipus Trilogy

 古代ギリシャ語はおろか、その古めかしい英語訳にさえ四苦八苦している。若い皆さんはこの愚を繰り返さぬように。
 男色坊主のための滑稽詩だという説は置いといて、生真面目に受け取ってこの詩を引用します。
少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声

チベット

 前にも少し書いたが、ハリウッド俳優をはじめとするアマチュア・リベラリストたちがチベットと聞いた途端にスイッチが入って騒ぎ始めるのは一体どういうことなのだろう。「自由」、「安定」、「愛国心」などの化粧を施してはいるが、所詮は世俗権力と宗教権力が絡み合った覇権争いではないか。アフリカ大陸中北部からユーラシア大陸中央部にかけての政教分離が最も未熟なベルト地帯においてその問題は枚挙に暇がないと言ってよい。「自由の旗」はチベットだけでなくそれらにおいても「平等に」振り回してもらいたい。なぜチベットの時だけ大騒ぎするのだ。シャングリ・ラはもうどこをさがしてもないんだよ。
 もちろん、今この瞬間にもそこで傷つき、倒れていっている人々を思って心が痛まぬわけではない。ただ最前線に立たされた双方の下っ端同士だけが殺し合い、覇権を狙う権力者同士はそれぞれ絶対的に安全な場所に立って言葉を弄んでいるという図はあそこだけで見られる現象ではないと言いたいだけである。

評価

 最初からあまり高い評価をもらうことは苦しいものだ。「見直したよ。」のほうが「見損なったよ。」よりもはるかにましなのである。
 よくある話。

説得

 あなたはホンモノを創造できる人なんだから、いつまでもニセモノと遊んでないで、そちらへ行きなさい、と言っても、その説得者がホンモノであることが証明されていないために、その説得は殆ど成功しない。
 よくある話。

宮部みゆき

 あらゆる点においてうまい。そのうまさは特筆に価する。
 そろそろ「読み捨て小説」は卒業して、まじめに文学に取り組んでほしいものである。

それにしても

 思うことは、私が本当に変わってしまったということだ。
 きのう、そのお年であなたのようにenergeticな人はブルガリアにはあまりいないとある学者に言われた。確かにこんな奴は日本でも少ないだろう。
 しかし、いかに職業世界――教室も含め――でエネルギッシュに振舞おうとも、「本当の」――そんなものがあればの話だが――私は別にある。その「私」は、例えば深夜鷗外を熟読しているような時や、人と時間を共有している時にでもまれにある「ああ、これは本物かもしれない」と感じる/錯覚するような瞬間などにのみ、その確かな手応えをもって存在する。
 そのような時以外の私は「お芝居」をしているに過ぎない。
 世間の中で生きるということはそういうことであり、みんなそうだよと言われるだろう。
 しかし私は「みんな」ではない。
 残された人生においては、私はそのような「お芝居」を極力減らしてゆく所存である。

森鷗外「安井夫人」

 晩年の綺羅星の如き傑作群の一。古記録を淡々と転写したかの如き文体の行間から立ち昇る孤高の文学世界。
 確かにこのような人は日本には後にも先にも皆無である。これからも現れぬ。それは仕方のないことだ。

2008年3月14日金曜日

「表現」ということ

 きょう、僕の親しい人たちが創り、弾き、歌っているMP3をたくさんいただいた。こういうのを聴いていていつも驚かされるのは、その客観的にも備わったただでさえ大きな魅力が、その作曲者や演奏者や歌手が実際に知っている友人たちの場合には、何倍にも倍加するということである。それが僕の分からないブルガリア語や他の言語の歌でもそれは殆ど関係がない。
 こういう凄いやつらを近しい友人にお持ちでない方でも、自分のよく知っている人の描いた絵や真摯な態度で書かれた文章(それは例えばブログのようなものでもよい)、さらに言えばカラオケでの歌唱などのようなものであってさえも、その「表現」されたものに触れた時にそこから激しい「衝撃」のような何ものかを受けた経験はあるだろう。
 僕は大変残念なことにそのような表現手段に恵まれない人間だ。その意味で、1年前に辻田君
――彼は、ほんのたまにではあるが驚くほどいいことを言う男である――に勧められてブログというものを始めたことは僕には大きな意味があると思う。昔の教え子たちから時々、講義を受けていた時代よりもかえってたくさん僕の肉声を聞いているような気がするという感想をもらうのも、そういうことなのだろうと思う。aozoraさんが「ブログ」で書いているように、ブログにはそのような(絶対にカッコつきで使わねばならぬ言葉だが)「自己表現手段」として使える可能性もあるのである。研究のためのブログを除けば、他に魅力を感じる種類のブログは僕にとっても存在しない。
 人間――無意識を持たぬ人々だという意味のことをラカンが言ったという日本人であっても――というものは極めて複雑な存在で、多面的であり、わかっているつもりでわかっていないものだ。しかし、他方で、わかっていないようで意外とわかっているものでもある。このことは、前に挙げた「自己」「表現」や「内面」などと同様に「理解」というような概念なども「言葉にできぬものは沈黙するしかない」カテゴリに属すことを示している。

2008年3月13日木曜日

次々と新星が誕生するLH95

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Star Forming Region LH 95
Credit: Hubble Heritage Team, D. Gouliermis (MPI Heidelberg) et al., (STScI/AURA), ESA, NASA
 みなさんには「何をやってもうまく行かぬ日」というのがあるそうですね。私にはありませんが。そういう時にはこういう若々しい星たちをゆっくりと眺める時を持つことをお勧めします。Hubbleを差し上げるわけには行かないので写真で我慢していただかなければなりませんが。

2008年3月10日月曜日

宇宙論

The End of Cosmology?
いや、むしろ、一体どこまで行くのだろう、という問いがナイーヴすぎるかもしれないと思うほどだ。名実共に「無限」に探究の続く可能性の最も高い領域ではないか。

日本社会の変貌

 朝日新聞社説「希望社会への提言(20)「単一民族神話」を乗り越える」を読んだ。
 振り返ってみれば私の知る限りでも約30年前から同じことが言われ続けている。当時と異なるのは、労働力受け入れの問題がもはやイデオロギーや倫理の問題ではなくなりつつあるということだろう。
 企業は労働力を必要とし、国家は納税者を必要としている。功利主義的に考えてみても、もはや選択肢はそれしか残されていない。
 もっとも、単に金の問題で済むのなら話は簡単だ。魅力的な労働マーケットを形成すればよい。先日のように外国人労働者が大規模デモをしなくて済むような条件を整備すればよいだけの話だ。
 困難なのは、差別・格差・暴力など、ヨーロッパが依然として苦しんでいる諸問題を最小限に抑えるための思想の形成である。そしてその真に有効なものを人類はまだ手にしていない。

「日本の魅力」

 日本経済新聞の社説「電機産業、再編加速で「総合」に別れ」を読んでいて少し感じたことがある。日本の魅力の一つとして――子どものアニメ・ゲームなどを除き――これまで経済力や組織力、効率主義などがよく挙げられてきたわけだが、一人当たりGDPが世界18位にまで落ち込んでみるとそれも怪しくなってくる。
 「日本ではこうしてるよ。」とすぐ言いたがる私の悪い癖は、自民族中心主義の醜悪を曝すのみならずその効力までも失いつつあるわけである。
 ハイホー。

Augustus(Octavianus)邸公開

House of Augustus opens to public
 紹介されている写真を見ただけでもその価値の大きさが窺える。共和国から帝国への過渡期の文化(交流)史研究への貢献には大きなものがあろう。詳細な調査結果を待ちたい。

Pavarotti, Pavarotti...

結局今夜はPavarottiばかり聴く夜になった。私の大好きなUna Furtiva Lagrimaをどうぞ。絶頂期のものはこちら

Clairemarie Osta

 Mezzoで観た。少し清楚すぎるきらいもあるCarmen(Youtubeにはこれしかなかった)だが、切れ味と表現力はさすがである。Nicolas le Riche(恋人でもあるそうだ。なるほど。)のDon Joseもすばらしい。

さよならパヴァロッティ。

 僕はケーブルTVのMezzoのチャンネルで見たのだが、AlbenaがYoutubeで見つけてくれた。Pavarotti II Canto.. Farewell old friend.
 おかげで繰り返し聴く事ができる。歌詞の英訳を教えてくれた人もいる。

The night hasn't returned here,
Since the day you went away,
and the sky has ended its game with the stars and the moon,
and the clouds are still standing
like tears that cannot fall.

Look how time changes memories as well,
There remains only the chant
of a love that never dies
Take my hand, dance with the wind,
I spread my wings,
I can only love you this way,
Come, come away with me.

Look how time....

2008年3月9日日曜日

Luciano Pavarotti

 彼が温かくMusumarra, Romano & Pintus, GiorgioIl cantoを歌い、それに合わせて様々な人々が口パクで「歌う」カットが連続するクリップを今Mezzoが流していた。
 よい。きわめてよい。

「カフカの『変身』はフィクションでなく事実だったことが明らかになった。」

A Bug’s Life. Really.
こういう種類の「毒」に対する免疫力を持っておりかつそのような「毒」を好んで摂取するタイプは少数派だろうと思う。私もその一人である。

ただただ美しいM104銀河。

(Click the pic. to enlarge)
M104 Hubble Remix
Credit & Copyright: Vicent Peris (OAUV / PTeam), MAST, STScI, AURA, NASA

Sofia日本語研究会

第4回例会無事終了。みなさん、だいぶ調子が出てきましたね。

2008年3月8日土曜日

クジラ。「愛国心」。

Greenpeace: Stores, eateries less inclined to offer whale
 人々の意識調査でなく「お前の所では売るのか。メニューに載せるのか。」というイデオロギー丸出しのおよそ知的とは言い難い調査からでも垣間見ることのできるのは、一般の人々が鯨を食べていない/食べなくなったという事実である。おおきな需要があるのに供給しないということは資本主義ではあり得ないからだ。
 やはり日本では「普通」の人々(だけ)がまともな人たちだということがこのあたりからもわかる。私はこういう人々を同国人として誇りに思う。色々な問題はあるにせよ、そういう人々を育ててきた戦後の日本は愛する価値があると思う。

 尊王攘夷論者諸君、こういうのを真の愛国心というのだよ。覚えておきたまえ。

The winner in Britain is...Terry Pratchett!!!

 とWikipediaには書いてありました。
 日本での事情も少しわかってきました。cf. http://netcafe-melancholy.seesaa.net/article/80871304.html
 でも、ネカフェって一度しか行ったことないんだけど、まともな本は置いてあったっけ?覚えてない。もしそうでなければこういうランキングは子どもの万引きの話になってコンビニ万引きと同次元の話に堕ちてしまう。

取り戻せるものと取り戻せぬもの

"She wanted to leave, she wanted to lie alone, facedown on her bed and savor the vile piquancy of the moment, and go back down the lines of branching consequences to the point before the destruction began. She needed to contemplate with eyes closed the full richness of what she had lost, what she had given away, and to anticipate the new regime." (Ian McEwan, Atonement.)
 ここは悲劇の単なるプロローグの部分にしか過ぎない。しかしこの主題は後に全体を貫く主旋律となる。

井上靖『風林火山』

 周りにある日本語の書物の数が限られている関係上、明らかに下らぬもの(少なくとも出版されたものの99%がそれに該当する)以外は片っ端から読む習慣になった。日本語の活字に触れる時間に絶対的な限界があるため「日本語の頭脳」を「維持」だけでもしておこうという腹だ。
 そういうわけで、『天平の甍』を中学生のときに読んで以来約35年ぶりに井上靖を読んだ。
 実に読みやすい。文体が平坦で快いリズムを持つ。一気に読んでしまえる。これが長く人気を保ってきた秘密なのだろう。
 以上。

え~と。。。

 ほんのたまになんだけど、僕に道を聞いてくるブルガリア人がいる。僕はそのたびにびっくり仰天する。これにはまだ慣れることができない。なんで僕に聞くの?教えて。
 しかし、どうやら私がScroogeよりちっとはましに見えるらしいことは証明された。

2008年3月7日金曜日

何だか忙しい。

 ここのところ、ほとんどが自分で蒔いた種とはいえ、あれこれと慌しい毎日になってしまっている。もう少し悠々と日々を過ごすはずだったんだけどなあ。おかしいなあ。
 それとも「啓蟄」ということかな。おかしなもので、日本にいた時はそれほど感じることもなかったのですが、ブルガリアに来て初めて実感しているのです。ほんとうに生きとし生けるものがみんな一斉に蠢動を開始した、そんな感じです。

夏目漱石『こころ』

 「先生」が自己を形容する時に用いた「狐疑」ということばが印象に残っている。狐のような猜疑心、懐疑心、といったところだろうか。「先生」そして漱石を理解するための重要な鍵概念の一つであろう。
 『こころ』は30年ほど前から何度も読み返しているが、この作品だけは読み返す度に、募る苛立ちの度合いが強くなる、私にとっては稀有な作品である。それがお前の限界だと言われようが何だろうが、私には「先生」が「遺書」の中でさえ青臭く感じられて仕方がなくなり始めている。
 漱石さえ読んでいればよいのだと公言していた時代を私は持っている。鷗外はどうもつまらないと
高言していた時代が確かに私にはある。
 本当に私は変わり始めているようだ。

まあ色々とあるもんだ・・・

 「映画クラブ」第1回無事終了。Petkoの献身的努力により37番教室が束の間ミニシアターに生まれ変わった。
 これからは「鑑賞」(これだけなら大学でやる意味はない)をどこまで、どのような、知的な営為に発展させていけるかが鍵になってくるだろう。
 Petkoお勧めの『タンポポ』を観たのだが、20世紀中頃のハリウッド西部劇のパロディであること、いや
日活ウエスタンへの伊丹十三のノスタルジーらしいことに恥ずかしながら今回初めて気づいた。

2008年3月6日木曜日

芥川龍之介「一夕話」

 前にも少し書いたが、龍之介には、誰か特定の人への当てこすりかと疑うような、意図のよく分からない文章が散見される。これもその類の文章である。
 彼は特に出来不出来の差の大きい作家であると思う。

森鷗外「阿部一族」

 時代的制約の下で鷗外が貫こうとした近代的批判精神。この作品にはこけおどしの「武士道」も「もののふ」の菊人形もまったく登場しない。出てくる人物は一人残らず長所欠点を共に備えた生身の「人間」たちばかりだ。
 「武士道」の度し難きイデオロギー性を暴いた鷗外の精神は現代日本に受け継がれているのだろうか。

芥川龍之介「一番気乗のする時」

「・・・ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の外套の襟へ頤を埋めても埋め栄えはしないやうな気がする。東清鉄道あたりの従業員は、日本人と露西亜人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を濶歩してゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。」
 ここにも日本の外での経験らしい経験のない(29歳の時一度だけ上海に行っているが3週間寝込み、その後は坂を転げ落ちるように衰弱していく)龍之介がいる。書物を通してしか「他者」を知らぬ限界が垣間見える。龍之介に「外」での経験をさせたかったと思うのは私だけではないだろう。どんなにかいいものを書いてくれただろうと残念でならない。

And the winner is.......Charles Bukowski !!

Flying Off the Shelves: The Pleasures and Perils of Chasing Book Thieves
 直接の関連はないが、数年前Barcelonaの活動家たちに会った日のことを連想的に思い出した。書物を市場原理主義の悪から「解放」する運動をやっている人たちだった。Jo Mango(だったと思う)と書かれたシールをたくさんもらった。「解放」した書物にそのシールを貼り、堂々と持ち歩こうというコンセプトだった。
 彼らの運動に参加する勇気が出ないまま、いつの間にかシールはどこかに行ってしまった。

 雨である。雪ではない。暖かく、温かい雨が降っている。
 心優しきブルガリアの人たちはмартеница
(マルテニツァ)を大切にする。私の両の手首も彼らの温かい心のしるしでいっぱいである。
 休みの日の公園は春を待ちわびるSofiaっ子たちがそぞろ歩きを楽しむ。
 春である。 

研究会の案内

 Sofia日本語研究会の第4回例会を下記要領で開催します。お気軽にご参加ください。

日時:2008年3月8日(土) 12時~14時
場所:CIEK、79 Todor Alexandrov, 3階、32番教室
テーマ:「日本語の自他カテゴリーとインド・ヨーロッパ語族の再帰動詞」
テーマ提供者:Albena Todorova、ソフィア大学日本学専攻非常勤講師
参加希望の方は、事前にbufistona@yahoo.comまでご一報くだされば幸いです。

4-тата сбирка на кръга ще бъде проведена както следва по-долу.
Ден и час: 8 март 2008, събота, от 12 до 14 часа
Място: ЦИЕК, 3 етаж, 32 ауд.
Тема: Категория преходност-непреходност в японския език и възвратни глаголи в индоевропейските езици
Предложил темата: Албена Тодорова, хон.преп. в СУ
Молим учтиво желаещите да участват да заявят участие на bufistona@yahoo.com.

Coen Brothers, NO COUNTRY FOR OLD MEN

 きのう脚本も読み終えた。
 正直に言う。映画にもあまり興奮しなかった。英語力が不十分なためかと考えて脚本も読んだわけだが、評価はあまり改善しなかった。
 もちろん、そこらへんのアホリウッド映画とは比較にならぬ面白さを持つ映画であることは認める。ようやく世界とコーエン兄弟が和解したかという一種の感慨もある。
 長い間、一番好きな映画は?というあの陳腐な質問に対していつも用意していた答えは「Barton Fink。」であった。コーエン兄弟を知っている人と知らない人、知っている人の中でもBarton Finkが好きな人とそうでない人、そのような基準で人を評価していた時代さえあるぐらいだ。
 では、なぜ私が彼らの映画からほとんど触発されることがなくなったのか。
 これと相前後して観たATONEMENTにはとても感動した。それをきっかけに原作も読み始め、これからIan McEwanをすべて読みたいとさえ思うようになっている。
 そのことを考え合わせると、これは私自身の内面が大きく変わりつつあるということではないかと思う。
 50の声を聞いて、ようやく私は「大人」になりつつあるのである。もちろん、10年後まだ生きていれば、あの頃はまだ子どもだったと言っているであろうことは間違いないが。

2008年3月4日火曜日

クジラを殺して食べること

 基本的には生理的な話である。僕はイヌやネコやサル同様、餓死の瀬戸際にでも立たない限り、クジラを食べない。人間に近すぎて気持ちが悪いという単純な理由だ。
 そんなことよりもここ20年ほどずっと私がおもしろいと思ってきたことは、原則的に国際協調路線を採り、波風を立てないように、事を荒立てないように、特に西欧諸国よりの国際関係を築いてきた日本が、なぜここまで頑ななのか、だ。
 今日は日本の新聞の中ではいつも比較的広い視野を持った論陣を張っている東京新聞までがいきり立っている。反捕鯨行動 不法な妨害は許せない
 「過激派」はどこにでもいる。その行動が違法ならそれとして法的手段に訴えればよい。捕鯨の是非の問題とは別次元の話だ。なぜ捕鯨権の擁護に話が摩り替わってしまうのか。
 自国を非難されるとすぐ傷つく類の幼稚な「愛国心」、利権業界からの圧力、族議員どもの暗躍、省エゴ、などもっともらしい理由はいくらでも挙げられるが、そんな程度のことは戦後の日本は60年以上に渡ってすべて乗り越えてきたはずだ。
 これは私が現在美しい解答を見出せずにいる1ダースほどの問いの一つである。

2008年3月3日月曜日

ソクラテスの子どもたち

 スィノペのディオゲネスとプラトン。
 似ても似つかぬ、しかし血を分けた双子の兄弟。

Roberto Bolaño

 彼の作品を読んでいる時間は、誤解を恐れずに言えば、他に何も要らない。
Álvaro Rousselot’s Journey

芥川龍之介「一塊の土」

 煌く天才。見事の一言。龍之介はこういうのも書ける人だったのだ。末尾の解説めいたくだりだけはいただけないが。

Alejandro Casona

 この作家について何か――Wikipedia以上に――ご存知のことがある方は是非教えてください。

ここはどこ?

(Click the pic. to enlarge)
Comet Hale-Bopp Over Val Parola Pass
Credit & Copyright: A. Dimai, (Col Druscie Obs.), AAC
地球です。Val Parola Passというのはイタリアのドロミテにあります。凄い光景だねえ。

2008年3月2日日曜日

芥川龍之介「一つの作が出来上るまで」

 冒頭にこう書いている。
 「或る一つの作品を書かうと思つて、それが色々の径路を辿つてから出来上がる場合と、直ぐ初めの計画通りに書き上がる場合とがある。例へば最初は土瓶を書かうと思つてゐて、それが何時の間にか鉄瓶に出来上がることもあり、又初めから土瓶を書かうと思ふと土瓶がそのまま出来上がることもある。その土瓶にしても蔓を籐にしようと思つてゐたのが竹になつたりすることもある。」
 神の創造に関しても冗談めかして同じようなものだろうと言っている。
 そういう立派なものに限らないだろう。生きるということはそういうことだと誰もが言うだろう。
 その中でも僕のはどちらかと言うとその程度が激しい部類に入るとは思うが。

漫画、マンガ、manga...

 社説では珍しく東京新聞が漫画雑誌の凋落に触れている。
 
少年漫画誌 斬新作品の提供を望む
 これだけなら、売れ行きが10年前の半分になった商品の生き残りの道をメーカーが模索しているだけの話で取り立てて論じる価値もない。珍しくも何ともない話である。
 しかし昔は、確かにそうではなかった。ひょっとしたら「文学」に代わり得るものとして、或いはそれを補完する新しい表現のジャンルとして、若い世代が漫画に熱中した時代が、確かにあった。30年ほど前の子どもの頃――大学生になったばかりの頃――一時的にではあるが出入りしていた――もう時効だからいいでしょう、はしかみたいなものです――「過激派」セクトの角棒ヘルメットの先輩たちが「暴力革命」論議の合間に『カムイ外伝』などを熱心に論じ合っていた光景を思い出す。彼らだけでなく、知的な訓練を受けた若者たちの中にも漫画には豊かな可能性があるのかもしれないと考える人が現れ始めてもいた。
 しかし、今から思えばそれが絶頂期であった。その後は周知の如く凋落の一途を辿り、「文化」「表現」どころか今やTVゲームとの客の奪い合いなどという次元にまで堕ちてしまっている。生産者たちと受容者たちとの共犯関係の負のスパイラルがここまで進んでしまえば、もう歴史が後戻りすることはないだろう。
 老いの繰言だとは思わない。何度となく繰り返されてきた「文化」の歴史の一つである。騒ぐようなことではない。
 既に消えてしまった幻影をいつまでも追い求めていても仕方がない。漫画が「商品」として生き延びてゆく道は唯一つ、ホラー・推理・ファンタジーなどのショーセツやTVゲーム、エーガなどと一体となったギョーカイを確立するということだけである。

2008年3月1日土曜日

脳の長生きのためのゲーム?

Keeping Your Brain Fit
 未来が永遠に続くと思っている小学生ならともかく、アルツハイマーが心配になり始めたいい大人がボケ防止のためにせっせとゲームをする姿は異様としか言いようがない。
 (たとえ効果があるという前提に立ったとしても)それで稼ぐことになる時間を実際には既に先払いでゲームで消費しているということを忘れてはいけない。
 先にその足し算と引き算の練習をやったほうがいい。それもボケ防止である。

芥川龍之介「伊東から」

 龍之介は実際これを送ったのだろうか。だとすれば時事新報側も困ったことだろう。

森鷗外「ヰタ・セクスアリス」

 私は鷗外のこういう掴み難さにとても興味がある。

推薦サイト

きのう遅まきながらすばらしいサイトを二つ知ったのでご紹介する。
 Edge
 Arts & Letter Daily
 Ian McEwanがあるインタヴューの中で好きなサイトだと言っていたのがきっかけである。
 上記の二つ以外にもすばらしいサイトはいくつかあるが日刊はこの二つぐらいだと思う。忙しい人は『ノマドの窓』を見捨ててもいいから、上の二つだけは毎日訪問してください。

Jared Diamond

 毎日少しずつGuns, germs and steelを読んでいる。
 ごく少数の術語――the Pleistocene epoch(
洪積世)とか――を除いてほとんど辞書が要らない。
 これだけの盛り沢山の内容――何しろ最近の13,000年に及ぶ人類史である――をこれだけ平易な言葉で論じ続けることができるということは本当に尊敬すべきことである。
 彼はとても賢く、そしてとても温かい。
 私は傲慢な人間だが、しかし尊敬する対象もたくさん持っているのですよ。

当面の戦略

 難しい難しいと言ってばかりいても仕方がない。きのう紹介したRichard Fordと絡めながら、現在――と言うよりもここ10年ほど――私がとっている戦略を言う。
 これはひょっとしたら目の前に座っている学生の誰か(無論特定の誰かが宛先であることも多いが)のためになることかもしれないと思う事は、徹底的に最後まで自分のほうで吟味した上の事でなくとも、それが学生にとって何か「真実」と関係があるものになるという確信があるなら、尻込みせず、とりあえず提示する。それをhabit of artとして毎日ずっと継続する。
 そしてその中から、一つでも二つでも学生が自分のために活かせるようなものを見つけるようなら、それでよし。そこには「真実」と何か関係するような或るものが生起したということである。
 教師が提示する無数のものから、学生が自分にとって大切なものを掴み取るヒントを見出す。すべては学生次第である。
 教師が「自分、自分」という考え方からどれだけ離れられるか。そこが分水嶺の一つではないかという気がする。

「教師に何ができるのか」

 京都教育大学にいた時代の「日本言語文化専攻」の在学生や卒業生たちでやっているサイトがある。そこの掲示板にきょうこういう書き込みがあった。
「いや、「何をするべきか」は私のような新米でもいつも考えていることなので、多分「教師に何ができるのか」から考えないといけないなー、と駒田先生のブログを読んでおもっています。」

 「教師に何ができるのか」。
 私のような教師には何もできることはないだろう。できることはただ一つ、学生たちが学ぶのを邪魔しないこと、である。と、一応言ってみることはできる。
 しかし、実は、それが、大変難しい。
 教師は自分が絶対に譲れないと信じている「規則」の束――それが「知識の集合」であろうと思想であろう――を学生に提示しなければならない。そうでなければ教える意味がない、と先日書いた。
 しかし、
さっきの龍之介の台詞とも関連することだが、他方で教師は自分の無能、能力の限界というものをいやというほど知っている。自分のような者を再生産することだけは避けなければならず、すべての学生に自分を乗り越えて行ってもらい(実は既に多くはそれを済ませているのであるが)、自分より少しでもましな人間になってもらいたいとも思っている。洗脳やクローニングをしているのでない限り、そうでなければ教育というものの意味はない。すると自分のような者が教える立場に立たぬことこそよりよい教育になるという話になってしまうのだ。
 教えなければならない。しかし教えてはならない。
 これが難しいのである。

きょうの山崎元さん

 特におもしろい。何がおもしろいかというと、冷静に、筋道を立てて論理的に考えることのできる人が筋道を立てて論理的に書いて/話しているのを見ることが極めて少ないことを改めて認識することができたという意味でおもしろかったのである。http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/
 もちろん私に人のことを言う資格がないのは分かっているが、しかし、それにしても、それができる人が少ない。本当に、唖然とするほど、少ない。