2008年3月13日木曜日

「表現」ということ

 きょう、僕の親しい人たちが創り、弾き、歌っているMP3をたくさんいただいた。こういうのを聴いていていつも驚かされるのは、その客観的にも備わったただでさえ大きな魅力が、その作曲者や演奏者や歌手が実際に知っている友人たちの場合には、何倍にも倍加するということである。それが僕の分からないブルガリア語や他の言語の歌でもそれは殆ど関係がない。
 こういう凄いやつらを近しい友人にお持ちでない方でも、自分のよく知っている人の描いた絵や真摯な態度で書かれた文章(それは例えばブログのようなものでもよい)、さらに言えばカラオケでの歌唱などのようなものであってさえも、その「表現」されたものに触れた時にそこから激しい「衝撃」のような何ものかを受けた経験はあるだろう。
 僕は大変残念なことにそのような表現手段に恵まれない人間だ。その意味で、1年前に辻田君
――彼は、ほんのたまにではあるが驚くほどいいことを言う男である――に勧められてブログというものを始めたことは僕には大きな意味があると思う。昔の教え子たちから時々、講義を受けていた時代よりもかえってたくさん僕の肉声を聞いているような気がするという感想をもらうのも、そういうことなのだろうと思う。aozoraさんが「ブログ」で書いているように、ブログにはそのような(絶対にカッコつきで使わねばならぬ言葉だが)「自己表現手段」として使える可能性もあるのである。研究のためのブログを除けば、他に魅力を感じる種類のブログは僕にとっても存在しない。
 人間――無意識を持たぬ人々だという意味のことをラカンが言ったという日本人であっても――というものは極めて複雑な存在で、多面的であり、わかっているつもりでわかっていないものだ。しかし、他方で、わかっていないようで意外とわかっているものでもある。このことは、前に挙げた「自己」「表現」や「内面」などと同様に「理解」というような概念なども「言葉にできぬものは沈黙するしかない」カテゴリに属すことを示している。

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