2018年10月15日月曜日
Emil Nolde
以前は強く意識していなかった画家なのだが、最近私は彼の作品に強く惹かれるようになっている。
In Urgent Color: Emil Nolde’s Expressionism
2018年10月14日日曜日
「君と行く路」成瀬巳喜男(1936)
成瀬の最大の弱点である作家性の弱さが如実に出ている作品。職人は職人としての仕事に専念すべきで、それはそれとして素晴らしいことだ。しかし職人は芸術性を求められる監督などはしないほうがよい。
「君と行く路」
2018年10月13日土曜日
2018年10月12日金曜日
2018年10月11日木曜日
2018年10月10日水曜日
辞典の復活
『Agora日本語読解辞典』の作業が再び可能になった。ほぼ3週間ぶりである。ライフワークであるこれに取り組んでいない時の私は死人も同然だ。文字通り生き返った思いである。プログラム自体にまだ大きな問題が残っており、Botのアクセスも厄介だが、とりあえず仕事ができるのは本当にありがたい。いつも献身的なサポートをしてくれるLyuboに深く感謝する。プロというものはやはり大したものである。
2018年10月9日火曜日
2018年10月7日日曜日
「しいのみ学園」清水宏(1955)
脚本・キャスティング・カメラ、なかなかよい。現代の視点からすればずれを感じる点もあるが、敗戦後10年、新しい日本を創り出そうという時代の機運が感じられて興味深い。
「しいのみ学園」
2018年10月5日金曜日
「路上の霊魂」村田実(1921)
小山内薫の製作総指揮。当時の日本の演劇・映画界の意気込みを垣間見ることのできる野心作。カメラのすばらしさに加え、内容的にもグリフィスの「イントレランス」の影響さえ感じる深さを持つ。当時の大衆にはさっぱり理解されなかっただろうし、現在でもそうだろう。インテリだけの世界だと批判されようと何だろうと当時の演劇・映画人たちのレヴェルの高さを感じる。日本映画の宝と呼べる作品。
「路上の霊魂」
2018年10月3日水曜日
2018年10月1日月曜日
2018年9月30日日曜日
「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」小津安二郎(1932)
小津のカットはすべてがそれぞれ一幅の絵画である。だから「絵本」だ。音声が入らない分、サイレントではそれが一層際立つ。すべてのアングル、すべての構図が計算されつくした上で確定されてゆく小津の芸術だ。名画が観るたびに新たな発見をもたらすのと同様に、この作品にも常に新たな発見がある。
その他、脚本、キャスティング、小道具、謎かけを含むユーモアなど、すべての点において、日本のみならず世界的なレベルにおいてサイレントの最高傑作の一つと言ってよい。
その他、脚本、キャスティング、小道具、謎かけを含むユーモアなど、すべての点において、日本のみならず世界的なレベルにおいてサイレントの最高傑作の一つと言ってよい。
「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」
2018年9月25日火曜日
「赤線地帯」溝口健二(1956)
溝口の遺作。名声を得るためであるかのような一連の作り物から離れ、ようやく自分の撮りたかったものを撮った感があるというのが第一印象。脚本、セット、小道具、お得意のロングショットをはじめとするカメラワーク、そして何よりも女優陣の生き生きとした名演。文句なしの名作。
「赤線地帯」
2018年9月23日日曜日
『レモンのような女』「私は私 ―アクチュアルな女―より」実相寺昭雄(1967)
テレビドラマ故制約も多かろう。キャストも含めひどい出来。映像だけがずば抜けて面白い。奇才実相寺の面目躍如。
『レモンのような女』「私は私 ―アクチュアルな女―より」
2018年9月21日金曜日
Googlebotその他
現在『Agora日本語読解辞典』の作業がほとんど止まっている。もう四日目になろうとしている。Googlebot、それからMicrosoft・Bing・Semrushなどのボットのアクセスがずっと続いているからだそうだ。いい迷惑である。しかたなくオフラインの仕事に専念しているが、アップデートが進まないのは実に困る。それだけこの辞典の価値が認められてきた証拠だと慰めてくれる人もいるが、Googleなんかに教えてもらわずともこの辞典の価値は作っている当人が十分に知っている。
この辞典は100年先を見据えて作っている。検索ランキング上位になど来なくてよいし、今の時代の人に理解されたいとも、またできるとも思っていない。
この辞典は100年先を見据えて作っている。検索ランキング上位になど来なくてよいし、今の時代の人に理解されたいとも、またできるとも思っていない。
検索でもAIでも何でも勝手にやればよいが、おおもとにいる人間の100年計画の邪魔をするな。
「残菊物語」溝口健二(1939)
世界的に極めて評価の高い作品だが、私はもう一つ感心しなかった。筋書きがありきたりなのは時代を考えると仕方がないが、まず主役が大根であることは致命的。全体に歌舞伎を見せておけば外国人はじめ素人はみんな騙せるとでも思っているかのような安直さのようなものを感じる。金と腕力ででっち上げた大作というのは言い過ぎか。お得意のワンシーンワンショットをはじめとするカメラワークと、森赫子をはじめとする脇役陣の名演は評価できる。
「残菊物語」
2018年9月19日水曜日
2018年9月18日火曜日
「名刀美女丸」溝口健二(1945)
出来不出来の落差のはげしい溝口のなかでも最悪の部類に入る作品。敗色濃厚の戦争末期という事情はあるにせよ、およそ芸術的なところが認められない。それをすべてわかっていてそれでも作ってしまうところが溝口らしいといえば溝口らしい。僅かに三木のカメラと山田の存在感が救い。
「名刀美女丸」
2018年9月17日月曜日
「一人息子」小津安二郎(1936)
今日感じたことを一つ。
この作品に限らず小津の作品にはいずれも「自然」がない。狭義の「自然」、人物の言動、どこにもありのままの自然さが存在しない。すべて、小津という芸術家が切り取り、配置し、動かし、しゃべらせている。ここでは人物も「風景」なのだ。
ありのままの「自然」を楽しみたければそこに直接向かえばよい。視覚的・聴覚的な快楽はそこから得られる。一方で「芸術」が芸術家が「自然」と向き合い、対話するところから生まれてくるものだとすれば、絵画も音楽も映画も文学もその作家が「自然」との対峙から新たに生み出すものである。そこにこそ芸術の存在価値がある。
小津の映画作品は紛れもなく芸術である。小津には駄作がない。モーツァルトやピカソに駄作がないのと同じだ。それは創るものすべてが芸術作品だからである。彼の初のトーキー作品である本作は、そのことを最も如実に物語るものという点においては、彼の最高傑作である。
この作品に限らず小津の作品にはいずれも「自然」がない。狭義の「自然」、人物の言動、どこにもありのままの自然さが存在しない。すべて、小津という芸術家が切り取り、配置し、動かし、しゃべらせている。ここでは人物も「風景」なのだ。
ありのままの「自然」を楽しみたければそこに直接向かえばよい。視覚的・聴覚的な快楽はそこから得られる。一方で「芸術」が芸術家が「自然」と向き合い、対話するところから生まれてくるものだとすれば、絵画も音楽も映画も文学もその作家が「自然」との対峙から新たに生み出すものである。そこにこそ芸術の存在価値がある。
小津の映画作品は紛れもなく芸術である。小津には駄作がない。モーツァルトやピカソに駄作がないのと同じだ。それは創るものすべてが芸術作品だからである。彼の初のトーキー作品である本作は、そのことを最も如実に物語るものという点においては、彼の最高傑作である。
「一人息子」
2018年9月16日日曜日
「鶴八鶴次郎」成瀬巳喜男(1938)
私は成瀬はまだあまり観ていないので大きなことは言えないのだが、邦画四天王の一人と言われるにしては、他の3人が抜きん出ていて、成瀬には今のところこれと言ったところが見当たらない。この作品にしても長谷川・山田・藤原の名優トリオの水際だった演技に圧倒され続けてそれで終わりという印象だ。ただ誰かがどこかにこの作品では「並ぶ」という言葉がキーワードだと書いていたように思う。それを頭に置いてもう一度観るとなるほどと思う。ここまで手が込んでいるとすれば成瀬は意識的にそれをやっているのかもしれない。私はもう少し成瀬に関して勉強するべきかもしれない。
「鶴八鶴次郎」
2018年9月15日土曜日
2018年9月14日金曜日
2018年9月13日木曜日
2018年9月12日水曜日
「淑女は何を忘れたか」小津安二郎(1937)
小津のトーキー2作目。サイレント時代から徐々に形成されてきた小津ならではの世界がほぼ確立し始めてきた感がある。このあと小津は出征する。
脚本、カメラ、キャスティング、衣装、小道具、すべてにおいてちょっと文句のつけようがない。戦後の小津のより有名な作品群の方がかえっておとなしくまとまって見えてしまうほどのインパクトをこの作品には感じる。
脚本、カメラ、キャスティング、衣装、小道具、すべてにおいてちょっと文句のつけようがない。戦後の小津のより有名な作品群の方がかえっておとなしくまとまって見えてしまうほどのインパクトをこの作品には感じる。
「淑女は何を忘れたか」
2018年9月11日火曜日
大坂なおみ
全米オープン優勝の快挙。試合中も試合後も真のチャンピオンとして振舞ったのは彼女の方だった。女子テニス界は完全に時代が変わったのだということを印象づけた一日だった。それにしても米国はどんどんおかしな国になってきている。
2018年9月10日月曜日
「螢火」五所平之助(1958)
この類のものは原作の魅力に寄りかかり過ぎて映画そのものの力に欠けるものが多いので、これもあまり期待せずに見たのだが、予想以上に完成度の高い作品に仕上がっているように思う。五所唯一の時代劇作品らしいが、もっと撮ってほしかった。それから、何といっても淡島千景の名演が印象に残る。
「螢火」
2018年9月9日日曜日
ファシズムと高等教育
米国が以前からこのような勢力を胚胎していることは知られているが、しかし、現実に事態がこのような所まで来てしまっていることは極めて憂慮すべきことである。
Fascism and the University
2018年9月8日土曜日
「怒りの街」成瀬巳喜男(1950)
舞台劇がそのまま映画になっているというのが第一印象。わざわざ映画作品にする価値があるのかは疑問。戦後間もない世相を垣間見ることの出来る資料的価値はある。
「怒りの街」
2018年9月7日金曜日
2018年9月6日木曜日
2018年9月5日水曜日
2018年9月4日火曜日
「宴 」五所平之助(1967)
最初の挿入曲を聞いた瞬間に凡作とわかる作品。キャスティングは相当豪華だが、2.26事件をロマン主義的に描く常套手段に終始する。原作・脚本がひどいとこうなってしまう。岩下志麻の存在感だけが収穫。
「宴 」
2018年9月3日月曜日
「13号待避線より その護送車を狙え」鈴木清順(1960)
ドタバタアクション。筋立てもキャスティングもひどいもので、清順も初期にはこんな程度だったのかと認識した。ただし、タイトルのつけ方(内容とはそぐわないが)、様々な移動手段の駆使、何か所かの映像の新規さ、とややユニークさは認められる。
「13号待避線より その護送車を狙え」
2018年9月2日日曜日
2018年9月1日土曜日
2018年8月31日金曜日
「噂の女」溝口健二(1954)
作品というものは常にその作家の最高作品を基準として評価されてしまう宿命にある。それがたとえ二流作家の最高作品よりも優れたものであったとしてもだ。
溝口は同じ年に「山椒大夫」、前年には「雨月物語」を発表している。それらと比べるとこの作品は数段見劣りがする。田中絹代のいつもながらの名演がひとりすべてを支えているような感がある。
溝口は同じ年に「山椒大夫」、前年には「雨月物語」を発表している。それらと比べるとこの作品は数段見劣りがする。田中絹代のいつもながらの名演がひとりすべてを支えているような感がある。
「噂の女」
2018年8月30日木曜日
Francis Fukuyama
彼のこれまでの議論の中には、どうしても同意できないという時期(特に”The End of History?”を展開していた頃)もあった。
しかし、いずれにせよ、今はこのインタビューにみられる彼の柔軟性及び率直さに好感を抱く。
しかし、いずれにせよ、今はこのインタビューにみられる彼の柔軟性及び率直さに好感を抱く。
What Follows the End of History? Identity Politics
2018年8月29日水曜日
2018年8月28日火曜日
「稲妻」成瀬巳喜男(1952)
当時はテレビドラマというものがなかったので、その程度のものもみな映画館まで出かけていっていちいち金を払って見なければならなかったということだ。
最後の数分、世田谷での高峰・浦辺の演技が辛うじて救い。
最後の数分、世田谷での高峰・浦辺の演技が辛うじて救い。
「稲妻」
2018年8月27日月曜日
2018年8月26日日曜日
PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul
what is damaged and wounding and reactionary in him is essential, a critical part of the work, not something ancillary or disfiguring.
極めて秀逸な往復書簡である。
PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul
2018年8月25日土曜日
2018年8月24日金曜日
歴史を学ぶこと
現在にも未来にも過去が胚胎している。現在も過去の集積が作り上げてきたものであるし、未来もまたそうある。歴史を学び歴史から学ぶことをやめた時、すべてが終わる。
The Case for Applied History
2018年8月23日木曜日
「煙突の見える場所」五所平之助(1953)
椎名麟三の原作を読んでいないのでどこからどこまでが五所のオリジナルなのかは定かではないが、まず印象に残るのは「明るさ」である。悲しく、みじめで、なさけない人物やエピソードが次から次へと出てくる筋立てであるにもかかわらず、一種のコミカルで前向きな雰囲気が全編を貫く。それには、音楽をはじめとする種々の「音」の効果的な使い方、脇役陣の一人ひとりまで選び抜かれたキャストの演技力、片足を引きずりながら土手を歩く女たち(すれ違う跛行の女も含む)をはじめとする印象的なシーンの数々、など様々な要素が複合的に貢献している。そして、もくもくと煙を上げ続ける煙突、赤ん坊、前向きに生きる二人の男女、などの、未来や生産を象徴する要素がちりばめられていること、そして何よりも敗戦から立ち直り日本再生へと離陸する直前の日本社会全体に胚胎していたエネルギーのようなものがその明るさを生み出しているのだろう。
この年は「東京物語」「雨月物語」という世界映画史上に残る名作も出ている。それと同時にこのような作品も生み出すことのできる五所のような監督も活躍した、やはりこの時代は日本映画の黄金時代だったのだ。
2018年8月22日水曜日
2018年8月21日火曜日
2018年8月20日月曜日
「乳房よ永遠なれ」田中絹代(1955)
田中絹代監督第3作。男性優位の映画界において一人怒号する田中。
北海道の明るい陽光、鏡の多用、天国への門としての霊安室、など印象に残るシーンを数多く持つにも拘らず、作品全体としてみた時の完成度が今一つ物足りなく感じられるのはなぜだろう。監督というのは難しい仕事だ。
北海道の明るい陽光、鏡の多用、天国への門としての霊安室、など印象に残るシーンを数多く持つにも拘らず、作品全体としてみた時の完成度が今一つ物足りなく感じられるのはなぜだろう。監督というのは難しい仕事だ。
「乳房よ永遠なれ」
2018年8月19日日曜日
2018年8月18日土曜日
「我が家は樂し」中村登(1951)
予定調和的なホームドラマ、と一言でいうのは易しいが、敗戦の痛手から未だ立ち直っていない当時の多くの日本の人々の心を温めた作品であろうことは想像に難くない。笠、高峰もさることながら、何といっても山田五十鈴の存在感が圧倒的である。
「我が家は樂し」
”a whole civilization”
一つの全体としての文明。文明としての一つの全体性。言うまでもなくそれは幻想である。しかしナイポールだけではない。程度の差こそあれ、原理的には文学も、そしてことばそのものも、そこに立脚する。私の辞典も同様だ。
V.S. Naipaul, Poet of the Displaced
2018年8月17日金曜日
「歌麿をめぐる五人の女」溝口健二(1946)
綿密な時代考証と徹底したリアリズム、随所に光るカメラワーク。溝口らしさのよく出た作品。役者に関しては、小津にとっての原(それから笠)と同様、溝口にとっても田中絹代(この作品でも息をのむ名演を見せる)のような傑出した存在が一人いれば十分なのであって、残りはすべて監督の映画芸術の中に呑み込まれてしまう。程度の差こそあれ、一流の監督というものにはそういう面がある。
「歌麿をめぐる五人の女」
2018年8月16日木曜日
言語帝国主義
翻って日本ではどうか。帝国支配期の台湾・朝鮮・南洋諸島における言語政策、またアイヌ語・琉球語をはじめとする被支配言語に対する政策。それらに関する研究が今一つ力強さに欠ける原因の一つは「当事者性」なのかも知れない。少数者の側からのより力強い異議申し立てが起こってくるためには、いかなることが必要なのだろうか。
Ngũgĩ wa Thiong’o and the Tyranny of Language
2018年8月15日水曜日
2018年8月14日火曜日
2018年8月13日月曜日
2018年8月12日日曜日
「人類学入門」今村昌平(1966)
細切れで全編を通しで見たわけではないので、全体評は控える。
「にっぽん昆虫記」ほどの衝撃はなかったが、今村ならではの魅力がある。
「うなぎ」のうなぎは、ここではフナ。坂本・小沢の名演と共に姫田真佐久のカメラが秀逸。
「にっぽん昆虫記」ほどの衝撃はなかったが、今村ならではの魅力がある。
「うなぎ」のうなぎは、ここではフナ。坂本・小沢の名演と共に姫田真佐久のカメラが秀逸。
「人類学入門」
快楽
中身は当たり前のことばかり言っているような気もするが、タイトルがいい。「良書を読むことの快楽主義。」良書を読むことの意味は、自己の成長などよりも、教養の獲得などよりも、まず何よりも快楽なのだ。これは書物に限らない。音楽、美術、あらゆる芸術に当てはまることだ。この快楽を他者に勧める必要はない。自分だけで楽しめばよい。時代の風雪に耐えた古典の快楽を知らぬ者のことなど知ったことではない。
The Hedonism of Reading Good Books
2018年8月11日土曜日
Promotional Intellectual
いずこも同じか。まだ米国や英国ほどではないにせよ、日本もその道を辿り始めているように見える。
しかしながら、ナイーブな議論をさせてもらえば、学問と永遠性は不離一体のもののはずだ。市場経済化の波に乗ろうが乗るまいが20年や30年の短期間に時代の寵児となったとしても1000年後には誰にも顧みられぬものになっていたとしたならば、それは無価値の学問だったということだ。知の永遠性を希求しようとしないものは、学者であれ大学であれ社会であれ、そんなものは消え去ってしまっても人類史的には一向に構わないではないか。
しかしながら、ナイーブな議論をさせてもらえば、学問と永遠性は不離一体のもののはずだ。市場経済化の波に乗ろうが乗るまいが20年や30年の短期間に時代の寵児となったとしても1000年後には誰にも顧みられぬものになっていたとしたならば、それは無価値の学問だったということだ。知の永遠性を希求しようとしないものは、学者であれ大学であれ社会であれ、そんなものは消え去ってしまっても人類史的には一向に構わないではないか。
The Rise of the Promotional Intellectual
「元禄忠臣蔵」溝口健二(1941・1942)
いくつかの特徴がある。
1.歌舞伎役者を多数用い、伝統的様式美を重視したこと。
2.開戦直後の作品で、戦争賛美・忠君愛国のイデオロギーが散見されること。
3.ワンシーン・ワンカットの実験的手法が用いられていること。
1.歌舞伎役者を多数用い、伝統的様式美を重視したこと。
2.開戦直後の作品で、戦争賛美・忠君愛国のイデオロギーが散見されること。
3.ワンシーン・ワンカットの実験的手法が用いられていること。
4.討ち入りシーンがないこと。
全体として、溝口の様式美がよく出た佳品だと言える。
元禄忠臣蔵
2018年8月10日金曜日
2018年8月8日水曜日
「にっぽん昆虫記」今村昌平(1963)
人はすべて虫である。随所に挿入されるストップモーションと短歌(らしきもの)がアクセントになっているだけの延々と続く昆虫観察のリアリズム。小津の代わりが居らぬように、やはり今村の代わりはいない。
「にっぽん昆虫記」
2018年8月7日火曜日
2018年8月6日月曜日
「蛍川」須川栄三(1987)
三國、大滝、殿山。日本映画の黄金時代の最後の生き残りの男優たちの演技が光る一作。逆に言えば見どころはそれだけ。原作の魅力のおかげもあり何とか最後まで見せたが、最後の特殊効果に頼り過ぎ。アニメに堕して、すべてをぶち壊した。カメラも凡庸で、この監督は一体映画を何だと思っているのだろうと思う。
蛍川
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