2018年12月29日土曜日

鳥声も積もれる雪に浸み入りぬ

初雪積もる。
「鳥声《てうせい》も積もれる雪に浸み入りぬ」

2018年12月28日金曜日

湖の西初雪は疾くあたたかく

湖西の初雪。
「湖《うみ》の西初雪は疾《と》くあたたかく」

2018年12月27日木曜日

冬空に堂塔凛と並び坐し

法隆寺。その清澄さは比類なし。
「冬空に堂塔凛と並び坐し」

氣田雅子「ニヒリズムの思索」

Agora日本語読解辞典』において、氣田雅子「ニヒリズムの思索抜粋分析完了。

2018年12月24日月曜日

挨拶の遠き過去より届きける

今はもう急速に過去の記憶となりつつある地よりクリスマスカードが届く。
「挨拶の遠き過去より届きける」

京都教育大学総合科学課程日本語・日本文化専攻

「先生」の帰国をダシにした同窓会。思いのほかたくさんの卒業生が集まってくれた。とても懐かしく楽しい会だった。卒業後もそれぞれの人生にいろいろなことがあって、しかし変わらず優しく温かい学生たちばかりだ。今はない専攻だが、日言はやはりすばらしい専攻だったのだ。

2018年12月21日金曜日

二葉亭四迷「エスペラントの話」

『Agora日本語読解辞典』内の広告について

今日から『Agora日本語読解辞典』内の各ページに広告が出るようになった。
オンライン辞典の維持費用は、作った当初はさほどでもなかったのであまり気にしていなかったが、データ量・ページ数が増えるに従ってそれに伴う諸費用が、自腹を切るにしても無視できぬ額に増えてきた。無料の辞典であり続けるためには、少しでもコストを抑えなければならない。ユーザーの方が辞典内の広告をクリックしてくださるだけでほんのわずかずつではあるがコストの軽減につながる。ユーザーのみなさんの温かいサポートをお願いする次第である。

2018年12月18日火曜日

2018年12月17日月曜日

2018年12月14日金曜日

針山孝彦「生き物たちの情報戦略—生存をかけた静かなる戦い」

冬来たる長雨を集め湖黯し

夜明け前の琵琶湖を見下ろす。
「冬来たる長雨《ながめ》を集め湖《うみ》黯《くろ》し」

藤田嗣治展

会期末ぎりぎりに行くことができた。「没後50年 藤田嗣治展」。
以前にもここに書いたが、彼の作品には多かれ少なかれ「哀しみ」がつきまとうものが多い。そのことの内実を今回は考えることができた。
感じたことを急いで書き留めるために今回は走り書きにとどめる。
女。猫。他者。無表情。静。理解不可能性。理解不能な他者への関心。自画像さえ例外ではない。彼にとっては自己も他者だ。
郷愁。日本。フランス。ルネサンス。神。手に入らぬもの・場所・時への郷愁。
上記の二つの側面はどうやら一つの絵の中には共存せぬもののように見える。それが最もよくわかるのは名作「カフェ」だ。フランスへの郷愁に満ちたこの作品の女性には珍しく「人間」がある。言い換えればこの作品の女性は「他者としての女性」ではなく、敢えて言えば藤田自身なのかもしれない。構図にしても色彩にしても、極めて工夫に富んだこの作品をゆっくりと間近に観ることができただけでもこの展覧会は大きな意味があった。
他者は理解不可能である。その他者へ関心を向けざるを得ないことの中にある哀しみ。
いくら望んでももはや二度と得られぬものがある。そこへの断ち難き郷愁の中にある哀しみ。
いずれにしても、到達不可能な対象への愛と執着。到達不可能ゆえの哀しみ。それがダ・ヴィンチにもピカソにもなれなかった藤田の中に漂う哀しみではなかったか。

2018年12月6日木曜日

仕事せり桜紅葉を傍らに

故郷にいる幸福。
「仕事せり桜紅葉を傍らに」

2018年12月5日水曜日

三島由紀夫「孔雀」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫孔雀冒頭部分析完了。

曇るほど鶴翼山はのびやかに

昼のジョギング。対岸を望む。
「曇るほど鶴翼山はのびやかに」

戦友

昨夜本当に久しぶりに昔の「戦友」たちと呑んだ。同じ知り合いでも、昔ともに最前線で「戦い」生き残った仲間は格別である。たがいに異なる国に住み11年の没交渉の期間があったにもかかわらず、昔通りにたがいに遠慮会釈なく言いたいことを言い、笑い合う。みな事務方で、もう今は偉くなってしまっているが、腹を割って話し合える関係は昔と変わらない。いや、むしろ親密さを増していることに気づく。いい酒だった。また今日から頑張ろうと思う。

2018年12月4日火曜日

2018年12月2日日曜日

師走なり日の出を見んと駆け上がる

ジョギング最後の難所。
「師走なり日の出を見んと駆け上がる」

2018年11月21日水曜日

初雪と遠き地よりの便りあり

ソフィアは遠くなりにけり。
「初雪と遠き地よりの便りあり」

倉田百三「愛と認識との出発」

秋雲の中を金環の日の出かな

今朝のジョギングは格別に美しいものだった。
「秋雲の中を金環の日の出かな」

2018年11月18日日曜日

風土

人は風土に生きている。
11年間のブルガリア時代はリヒテルのショパンに魅せられていた。ブルガリアに行く前はその甘ったるさが趣味に合わなかったショパンだが、冬のソフィア、凍えるアパートでの毎日の生活の中では、リヒテルの名演により、彼らの中にあるスラブの哀愁、哀しみのようなものが日々の生活に極めて似つかわしく感じられ、その美しさにのめりこんでいたものだ。
そして日本に帰国して2週間。スラブ的なものがまったくと言っていいほど感じられないこの地では、生れてはじめてシューベルトの愛らしい悲しみが心に響くことに驚く。ブルガリアを経験する前の日本時代にもブルガリア時代にもやはりその甘さが好みではなかったシューベルトなのに、日本とブルガリアを経験した今の第2の日本時代の私には、初めてシューベルトが自分の音楽の一部になった感があるのである。その背景には風土そのものだけでなく各々の風土の中に生きる/生きた私自身の存在のあり方が深くかかわっていることは言うまでもない。
もちろんこのシューベルトの場合もリヒテルの演奏でなければならない。

Schubert Klavierstuck D.946 n.2

2018年11月15日木曜日

縮めるは手帳のみとは言ひ聞かせ

無職の身となり大型の手帳は不要となる。
「縮めるは手帳のみとは言ひ聞かせ」

小林多喜二「工場細胞」

Agora日本語読解辞典』において、小林多喜二工場細胞冒頭部分析完了。

2018年11月11日日曜日

のつそりと湖は朝陽を押し出せり

いつものジョギングルート上の古墳から見下ろす。
「のつそりと湖《うみ》は朝陽を押し出せり」

2018年11月10日土曜日

人も樹も動かず雨の肌伝う

晩秋の雨。
「人も樹も動かず雨の肌伝う」

2018年11月9日金曜日

不可思議の不穏な夢に秋深し

これも記憶の整理か。
「不可思議の不穏な夢に秋深し」

2018年11月7日水曜日

し残したことの悪夢に起こさるる

穏かならぬ目覚め。
「し残したことの悪夢に起こさるる」

貨車走る音の向ふに湖の夜

ベランダにて。
「貨車走る音の向ふに湖《うみ》の夜」

2018年11月6日火曜日

目覚めれば泣きはらした眼で外は晴れ

最初の朝。
「目覚めれば泣きはらした眼で外は晴れ」

雨だれのほか地上には音もなき

日本の夜に戻る。
「雨だれのほか地上には音もなき」

2018年11月4日日曜日

荷造りは下弦の月に見守られ

夜明け前の最終準備。
「荷造りは下弦の月に見守られ」

君のこと落ち葉はらはら忘れない

忘れてはいけない。
「君のこと落ち葉はらはら忘れない」

ゆく秋の最後の空に星一つ

ブルガリアでの11年が終わる。
「ゆく秋の最後の空に星一つ」

2018年11月2日金曜日

2018年10月30日火曜日

日は過ぎぬドタバタとまたジタバタと

この11年は私の人生においてどういう意味を持つことになるのだろう。
「日は過ぎぬドタバタとまたジタバタと」

2018年10月28日日曜日

三島由紀夫「太陽と鉄」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫太陽と鉄抜粋分析完了。

日本フォークの夜明け

清新な岡林がここにある。

「岡林信康ファーストコンサート」

十一年括りて干せる大ジョッキ

今日が正真正銘最後の最後の送別会だった。4時間にわたる会の間、何度も目頭の熱くなることがあった。すべての人に感謝する。
「十一年括りて干せる大ジョッキ」

2018年10月24日水曜日

昇れるはソフィア名残の大満月

ベランダにて一服。
「昇れるはソフィア名残の大満月」

2018年10月23日火曜日

思い出の落葉となり積りける

去りがたき思い。
「思い出の落葉《らくよう》となり積りける」

2018年10月21日日曜日

色づきの異なる国へ帰りゆく

紅葉の下にて。
「色づきの異なる国へ帰りゆく」

「黒い太陽」蔵原惟繕(1964)

荒唐無稽そのもの。ディスコミュニケーションによるコミュニケーション。マックス・ローチがすべてを救済する。

「黒い太陽」

別れの宴

宴が続く。
成し遂げたこと。挫折したこと。得た人々。失った人々。遺してゆくもの。故国に待つもの。
11年余のここでの人生を終えるにあったって様々な想いが交錯し、穏かならぬ日々が続く。

2018年10月19日金曜日

佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」

十年は変わり変わらず秋の風

11年を振り返る。
「十年は変わり変わらず秋の風」

「ろくでなし」吉田喜重(1960)

喜重のデビュー作でまだあまり彼らしさが出ていない。筋書きがあまりに稚拙で、最後まで観ていられなかった。

「ろくでなし」

佐藤春夫「オカアサン」

Agora日本語読解辞典』において、佐藤春夫オカアサン冒頭部分析完了。

2018年10月18日木曜日

花が咲き実結びてのち土に落つ

ブルガリアでの11年余を終える。
「花が咲き実結びてのち土に落つ」

「東京の女 」小津安二郎(1933)

9日間で撮りあげたと言われるやっつけ仕事だけあって完成度は低い。しかし、小津自身がこの頃から画面のポジションが決まってきたと言っているようにカメラは小津らしさが随所に展開する。わずか9日間で並みの監督をはるかに凌駕する世界を創ってしまうのだから、さすがとしか言いようがない。

「東京の女 」

亀井勝一郎「物語の絵画化についてなど」

2018年10月16日火曜日

三島由紀夫「天人五衰」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫天人五衰抜粋分析完了。

「按摩と女」清水宏(1938)

冒頭のシーン数秒を見ただけで誰の目にもすぐに名作だとわかる。脚本、キャスティング、そして何よりもカメラ。その他すべてにおいて一部の隙もない。私は今までこの作品を知らなかったことを本当に恥ずかしく思う。清水は真の天才である。終生の親友であった小津が静の作り物の天才であったとすれば、清水は動の作り物の天才だ。一本の名作は100万本の凡作に勝る。この二人の作品をもっともっともっと観たかった。

「按摩と女」

2018年10月14日日曜日

「君と行く路」成瀬巳喜男(1936)

成瀬の最大の弱点である作家性の弱さが如実に出ている作品。職人は職人としての仕事に専念すべきで、それはそれとして素晴らしいことだ。しかし職人は芸術性を求められる監督などはしないほうがよい。

「君と行く路」

亀井勝一郎「馬鈴薯の花」

いわし雲私が生まれてきたわけは

空を見る。
「いわし雲私が生まれてきたわけは」

2018年10月13日土曜日

芥川龍之介「開化の良人」

「愛染かつら」野村浩将(1938)

最初期の版を観た。この種のメロドラマは芸術になりにくい。主役ではないが、ここでも桑野道子の存在感は際立っている。

「愛染かつら」

2018年10月11日木曜日

2018年10月10日水曜日

「みかへりの搭」清水宏(1941)

カメラワークと子役たちの躍動ぶりは世界最高レベル。しかしそれだけでは真の名作たり得ない。映画とは、芸術とは、難しいものである。

「みかへりの搭」

辞典の復活

Agora日本語読解辞典』の作業が再び可能になった。ほぼ3週間ぶりである。ライフワークであるこれに取り組んでいない時の私は死人も同然だ。文字通り生き返った思いである。プログラム自体にまだ大きな問題が残っており、Botのアクセスも厄介だが、とりあえず仕事ができるのは本当にありがたい。いつも献身的なサポートをしてくれるLyuboに深く感謝する。プロというものはやはり大したものである。

2018年10月9日火曜日

哀しみは一生二生秋深し

『みかへりの搭』を観て。
「哀しみは一生二生秋深し」

2018年10月7日日曜日

「しいのみ学園」清水宏(1955)

脚本・キャスティング・カメラ、なかなかよい。現代の視点からすればずれを感じる点もあるが、敗戦後10年、新しい日本を創り出そうという時代の機運が感じられて興味深い。

「しいのみ学園」

2018年10月5日金曜日

「路上の霊魂」村田実(1921)

小山内薫の製作総指揮。当時の日本の演劇・映画界の意気込みを垣間見ることのできる野心作。カメラのすばらしさに加え、内容的にもグリフィスの「イントレランス」の影響さえ感じる深さを持つ。当時の大衆にはさっぱり理解されなかっただろうし、現在でもそうだろう。インテリだけの世界だと批判されようと何だろうと当時の演劇・映画人たちのレヴェルの高さを感じる。日本映画の宝と呼べる作品。

「路上の霊魂」

2018年10月4日木曜日

「那落」平井健太

我慢して半分ほど見たが、とうとう放り投げた。誰がこんなのに製作費出したんだ。頭の悪い奴は監督やってみようなんて気を起こすな。

「那落」

2018年10月3日水曜日

「お琴と佐助 」衣笠貞之助(1961)

原作の耽美さは影を潜め、ひたすら山本及びその衣装の美しさと一琴・三味線の名人たちの芸を楽しむ娯楽作品になっている。

「お琴と佐助 」

2018年10月1日月曜日

「初春狸御殿」木村恵吾(1959)

半分も観なかった。最後まで観る必要はない。人気者を揃えて興行的な成功だけを狙う、という見本のような作品。若尾の魅力満載。

「初春狸御殿」

2018年9月30日日曜日

「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」小津安二郎(1932)

小津のカットはすべてがそれぞれ一幅の絵画である。だから「絵本」だ。音声が入らない分、サイレントではそれが一層際立つ。すべてのアングル、すべての構図が計算されつくした上で確定されてゆく小津の芸術だ。名画が観るたびに新たな発見をもたらすのと同様に、この作品にも常に新たな発見がある。
その他、脚本、キャスティング、小道具、謎かけを含むユーモアなど、すべての点において、日本のみならず世界的なレベルにおいてサイレントの最高傑作の一つと言ってよい。

「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」

2018年9月25日火曜日

「赤線地帯」溝口健二(1956)

溝口の遺作。名声を得るためであるかのような一連の作り物から離れ、ようやく自分の撮りたかったものを撮った感があるというのが第一印象。脚本、セット、小道具、お得意のロングショットをはじめとするカメラワーク、そして何よりも女優陣の生き生きとした名演。文句なしの名作。

「赤線地帯」

2018年9月23日日曜日

『レモンのような女』「私は私 ―アクチュアルな女―より」実相寺昭雄(1967)

テレビドラマ故制約も多かろう。キャストも含めひどい出来。映像だけがずば抜けて面白い。奇才実相寺の面目躍如。

『レモンのような女』「私は私 ―アクチュアルな女―より」

2018年9月21日金曜日

Googlebotその他

現在『Agora日本語読解辞典』の作業がほとんど止まっている。もう四日目になろうとしている。Googlebot、それからMicrosoft・Bing・Semrushなどのボットのアクセスがずっと続いているからだそうだ。いい迷惑である。しかたなくオフラインの仕事に専念しているが、アップデートが進まないのは実に困る。それだけこの辞典の価値が認められてきた証拠だと慰めてくれる人もいるが、Googleなんかに教えてもらわずともこの辞典の価値は作っている当人が十分に知っている。
この辞典は100年先を見据えて作っている。検索ランキング上位になど来なくてよいし、今の時代の人に理解されたいとも、またできるとも思っていない。
検索でもAIでも何でも勝手にやればよいが、おおもとにいる人間の100年計画の邪魔をするな。

「残菊物語」溝口健二(1939)

世界的に極めて評価の高い作品だが、私はもう一つ感心しなかった。筋書きがありきたりなのは時代を考えると仕方がないが、まず主役が大根であることは致命的。全体に歌舞伎を見せておけば外国人はじめ素人はみんな騙せるとでも思っているかのような安直さのようなものを感じる。金と腕力ででっち上げた大作というのは言い過ぎか。お得意のワンシーンワンショットをはじめとするカメラワークと、森赫子をはじめとする脇役陣の名演は評価できる。

「残菊物語」

2018年9月18日火曜日

「名刀美女丸」溝口健二(1945)

出来不出来の落差のはげしい溝口のなかでも最悪の部類に入る作品。敗色濃厚の戦争末期という事情はあるにせよ、およそ芸術的なところが認められない。それをすべてわかっていてそれでも作ってしまうところが溝口らしいといえば溝口らしい。僅かに三木のカメラと山田の存在感が救い。

「名刀美女丸」

2018年9月17日月曜日

三島由紀夫「盗賊」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫盗賊抜粋分析完了。

「一人息子」小津安二郎(1936)

今日感じたことを一つ。
この作品に限らず小津の作品にはいずれも「自然」がない。狭義の「自然」、人物の言動、どこにもありのままの自然さが存在しない。すべて、小津という芸術家が切り取り、配置し、動かし、しゃべらせている。ここでは人物も「風景」なのだ。
ありのままの「自然」を楽しみたければそこに直接向かえばよい。視覚的・聴覚的な快楽はそこから得られる。一方で「芸術」が芸術家が「自然」と向き合い、対話するところから生まれてくるものだとすれば、絵画も音楽も映画も文学もその作家が「自然」との対峙から新たに生み出すものである。そこにこそ芸術の存在価値がある。
小津の映画作品は紛れもなく芸術である。小津には駄作がない。モーツァルトやピカソに駄作がないのと同じだ。それは創るものすべてが芸術作品だからである。彼の初のトーキー作品である本作は、そのことを最も如実に物語るものという点においては、彼の最高傑作である。

「一人息子」

2018年9月16日日曜日

「鶴八鶴次郎」成瀬巳喜男(1938)

私は成瀬はまだあまり観ていないので大きなことは言えないのだが、邦画四天王の一人と言われるにしては、他の3人が抜きん出ていて、成瀬には今のところこれと言ったところが見当たらない。この作品にしても長谷川・山田・藤原の名優トリオの水際だった演技に圧倒され続けてそれで終わりという印象だ。ただ誰かがどこかにこの作品では「並ぶ」という言葉がキーワードだと書いていたように思う。それを頭に置いてもう一度観るとなるほどと思う。ここまで手が込んでいるとすれば成瀬は意識的にそれをやっているのかもしれない。私はもう少し成瀬に関して勉強するべきかもしれない。

「鶴八鶴次郎」

2018年9月13日木曜日

「瀧の白糸」溝口健二(1933)

結末こそ原作より一般向けに改変しているが、原作の泉鏡花義血侠血」の魅力を十分に生かした展開になっている。脚本・撮影・キャスティング・スピード。どれをとっても最高水準。サイレント時代の溝口の代表作で、世界的にもサイレントの最高峰の一つに位置付けるべき作品である。
それにしてもサイレントの大女優入江たか子の存在感は圧倒的である。

「瀧の白糸」

2018年9月12日水曜日

「淑女は何を忘れたか」小津安二郎(1937)

小津のトーキー2作目。サイレント時代から徐々に形成されてきた小津ならではの世界がほぼ確立し始めてきた感がある。このあと小津は出征する。
脚本、カメラ、キャスティング、衣装、小道具、すべてにおいてちょっと文句のつけようがない。戦後の小津のより有名な作品群の方がかえっておとなしくまとまって見えてしまうほどのインパクトをこの作品には感じる。

「淑女は何を忘れたか」

2018年9月11日火曜日

大坂なおみ

全米オープン優勝の快挙。試合中も試合後も真のチャンピオンとして振舞ったのは彼女の方だった。女子テニス界は完全に時代が変わったのだということを印象づけた一日だった。それにしても米国はどんどんおかしな国になってきている。

『Agora日本語読解辞典』34万ページ

Agora日本語読解辞典』が34万ページを超えた。

2018年9月10日月曜日

「螢火」五所平之助(1958)

この類のものは原作の魅力に寄りかかり過ぎて映画そのものの力に欠けるものが多いので、これもあまり期待せずに見たのだが、予想以上に完成度の高い作品に仕上がっているように思う。五所唯一の時代劇作品らしいが、もっと撮ってほしかった。それから、何といっても淡島千景の名演が印象に残る。

「螢火」

芥川龍之介「蜜柑」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介蜜柑冒頭部分析完了。

2018年9月9日日曜日

ファシズムと高等教育

米国が以前からこのような勢力を胚胎していることは知られているが、しかし、現実に事態がこのような所まで来てしまっていることは極めて憂慮すべきことである。

Fascism and the University

2018年9月8日土曜日

「怒りの街」成瀬巳喜男(1950)

舞台劇がそのまま映画になっているというのが第一印象。わざわざ映画作品にする価値があるのかは疑問。戦後間もない世相を垣間見ることの出来る資料的価値はある。

「怒りの街」

徳富蘆花「熊の足跡」

Agora日本語読解辞典』において、徳富蘆花熊の足跡冒頭部分析完了。

2018年9月7日金曜日

「ふるさとはどこですか」

これを聴くたびに眼がしらが熱くなる。私だけかも知れない。

「ふるさとはどこですか」

音楽と快楽。音楽の快楽。

完全に袋小路に陥っている。脳科学の発展を待つしかないのかもしれない。

Musical pleasures

2018年9月6日木曜日

森鷗外「大塩平八郎」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外大塩平八郎冒頭部分析完了。

想ひ出は地層の如し国離る

帰国を決意して。
 想ひ出は地層の如し国離る

「黒い雪」武智鉄二(1965)

一見不条理劇のようで、巧みにまとめられていてわかりやすい。軍用機のジェット音が非常に効果的に使われる。

「黒い雪」

顧みて悔いばかりなり秋は来ぬ

発つ時を考え始めて。
 顧みて悔いばかりなり秋は来ぬ

戻らぬは戻らぬものと夏過ぎぬ

一つの時代の終わらんとするにあたりて。
 戻らぬは戻らぬものと夏過ぎぬ

2018年9月4日火曜日

「宴 」五所平之助(1967)

最初の挿入曲を聞いた瞬間に凡作とわかる作品。キャスティングは相当豪華だが、2.26事件をロマン主義的に描く常套手段に終始する。原作・脚本がひどいとこうなってしまう。岩下志麻の存在感だけが収穫。

「宴 」

2018年9月3日月曜日

「13号待避線より その護送車を狙え」鈴木清順(1960)

ドタバタアクション。筋立てもキャスティングもひどいもので、清順も初期にはこんな程度だったのかと認識した。ただし、タイトルのつけ方(内容とはそぐわないが)、様々な移動手段の駆使、何か所かの映像の新規さ、とややユニークさは認められる。

「13号待避線より その護送車を狙え」

2018年9月2日日曜日

Samuel Huntington

これもFRANCIS FUKUYAMAの議論の明快さの一例。

Huntington’s Legacy

「女のみづうみ」吉田喜重(1966)

筋立ても運びも支離滅裂。しかし、映像と音楽は文句なく素晴らしい。これぞ喜重のヌーヴェルヴァーグ。

「女のみづうみ」

2018年8月31日金曜日

三島由紀夫「潮騒」

Agora日本語読解辞典』において、三島由紀夫潮騒抜粋分析完了。

「噂の女」溝口健二(1954)

作品というものは常にその作家の最高作品を基準として評価されてしまう宿命にある。それがたとえ二流作家の最高作品よりも優れたものであったとしてもだ。
溝口は同じ年に「山椒大夫」、前年には「雨月物語」を発表している。それらと比べるとこの作品は数段見劣りがする。田中絹代のいつもながらの名演がひとりすべてを支えているような感がある。

「噂の女」

2018年8月30日木曜日

「からみ合い」小林正樹(1962)

日本版フィルム・ノワール。豪華キャストであるにもかかわらず、小林独特の重厚な撮り方と武満徹の音楽が印象に残る程度の作品。

「からみ合い」

Francis Fukuyama

彼のこれまでの議論の中には、どうしても同意できないという時期(特に”The End of History?”を展開していた頃)もあった。
しかし、いずれにせよ、今はこのインタビューにみられる彼の柔軟性及び率直さに好感を抱く。

What Follows the End of History? Identity Politics

2018年8月28日火曜日

「稲妻」成瀬巳喜男(1952)

当時はテレビドラマというものがなかったので、その程度のものもみな映画館まで出かけていっていちいち金を払って見なければならなかったということだ。
最後の数分、世田谷での高峰・浦辺の演技が辛うじて救い。

「稲妻」

森鷗外「魚玄機」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外魚玄機冒頭部分析完了。

2018年8月27日月曜日

「有りがたうさん」清水宏(1936)

初期日本映画のロードムービーの秀作だと思う。この作品も監督ももっと評価されていい。キャストでは何といっても桑野通子が傑出して素晴らしい。

「有りがたうさん」

2018年8月26日日曜日

谷崎潤一郎「盲目物語」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎盲目物語冒頭部分析完了。

PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul

what is damaged and wounding and reactionary in him is essential, a critical part of the work, not something ancillary or disfiguring.
 極めて秀逸な往復書簡である。

PANKAJ MISHRA, NIKIL SAVAL  The Painful Sum of Things On V. S. Naipaul

2018年8月25日土曜日

「上海」「南京」1938

資料的価値しか認められない作品。
その後、米国相手の本物の戦争になってくると、こんな能天気な長編プロパガンダ映画を作る余裕はなくなっただろう。少なくとも私は見たことがない。

「上海」「南京」1938

ジョン・ロールズ

私の専門外なので精緻な議論はできない。しかし彼の言う「無知のヴェール」というツールが若い頃の私の目を開かせてくれたことを思い出した。

John Rawls, Socialist?

2018年8月24日金曜日

芥川龍之介「歯車」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介歯車冒頭部分析完了。

歴史を学ぶこと

現在にも未来にも過去が胚胎している。現在も過去の集積が作り上げてきたものであるし、未来もまたそうある。歴史を学び歴史から学ぶことをやめた時、すべてが終わる。

The Case for Applied History

2018年8月23日木曜日

「煙突の見える場所」五所平之助(1953)

椎名麟三の原作を読んでいないのでどこからどこまでが五所のオリジナルなのかは定かではないが、まず印象に残るのは「明るさ」である。悲しく、みじめで、なさけない人物やエピソードが次から次へと出てくる筋立てであるにもかかわらず、一種のコミカルで前向きな雰囲気が全編を貫く。それには、音楽をはじめとする種々の「音」の効果的な使い方、脇役陣の一人ひとりまで選び抜かれたキャストの演技力、片足を引きずりながら土手を歩く女たち(すれ違う跛行の女も含む)をはじめとする印象的なシーンの数々、など様々な要素が複合的に貢献している。そして、もくもくと煙を上げ続ける煙突、赤ん坊、前向きに生きる二人の男女、などの、未来や生産を象徴する要素がちりばめられていること、そして何よりも敗戦から立ち直り日本再生へと離陸する直前の日本社会全体に胚胎していたエネルギーのようなものがその明るさを生み出しているのだろう。
この年は「東京物語」「雨月物語」という世界映画史上に残る名作も出ている。それと同時にこのような作品も生み出すことのできる五所のような監督も活躍した、やはりこの時代は日本映画の黄金時代だったのだ。

2018年8月20日月曜日

「乳房よ永遠なれ」田中絹代(1955)

田中絹代監督第3作。男性優位の映画界において一人怒号する田中。
北海道の明るい陽光、鏡の多用、天国への門としての霊安室、など印象に残るシーンを数多く持つにも拘らず、作品全体としてみた時の完成度が今一つ物足りなく感じられるのはなぜだろう。監督というのは難しい仕事だ。

「乳房よ永遠なれ」

2018年8月18日土曜日

「我が家は樂し」中村登(1951)

予定調和的なホームドラマ、と一言でいうのは易しいが、敗戦の痛手から未だ立ち直っていない当時の多くの日本の人々の心を温めた作品であろうことは想像に難くない。笠、高峰もさることながら、何といっても山田五十鈴の存在感が圧倒的である。

「我が家は樂し」

森鷗外「護持院原の敵討」

”a whole civilization”

一つの全体としての文明。文明としての一つの全体性。言うまでもなくそれは幻想である。しかしナイポールだけではない。程度の差こそあれ、原理的には文学も、そしてことばそのものも、そこに立脚する。私の辞典も同様だ。

V.S. Naipaul, Poet of the Displaced

2018年8月17日金曜日

「歌麿をめぐる五人の女」溝口健二(1946)

綿密な時代考証と徹底したリアリズム、随所に光るカメラワーク。溝口らしさのよく出た作品。役者に関しては、小津にとっての原(それから笠)と同様、溝口にとっても田中絹代(この作品でも息をのむ名演を見せる)のような傑出した存在が一人いれば十分なのであって、残りはすべて監督の映画芸術の中に呑み込まれてしまう。程度の差こそあれ、一流の監督というものにはそういう面がある。

「歌麿をめぐる五人の女」

谷崎潤一郎「卍」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎冒頭部分析完了。

2018年8月16日木曜日

言語帝国主義

翻って日本ではどうか。帝国支配期の台湾・朝鮮・南洋諸島における言語政策、またアイヌ語・琉球語をはじめとする被支配言語に対する政策。それらに関する研究が今一つ力強さに欠ける原因の一つは「当事者性」なのかも知れない。少数者の側からのより力強い異議申し立てが起こってくるためには、いかなることが必要なのだろうか。

Ngũgĩ wa Thiong’o and the Tyranny of Language

2018年8月15日水曜日

「新・平家物語」溝口健二(1955)

溝口初のカラー作品。宮川一夫はじめ一流のスタッフをそろえた作品にしては、作品としての印象が薄い。ただ、長回しのカメラワークは魅力的。

新・平家物語

芥川龍之介「南京の基督」

Donald Hall

米寿と卒寿の間でこういう文を綴ることができる。詩人とはすばらしい職業である。

Notes Nearing Ninety: Learning to Write Less

2018年8月14日火曜日

2018年8月12日日曜日

「人類学入門」今村昌平(1966)

細切れで全編を通しで見たわけではないので、全体評は控える。
「にっぽん昆虫記」ほどの衝撃はなかったが、今村ならではの魅力がある。
「うなぎ」のうなぎは、ここではフナ。坂本・小沢の名演と共に姫田真佐久のカメラが秀逸。

「人類学入門」

快楽

中身は当たり前のことばかり言っているような気もするが、タイトルがいい。「良書を読むことの快楽主義。」良書を読むことの意味は、自己の成長などよりも、教養の獲得などよりも、まず何よりも快楽なのだ。これは書物に限らない。音楽、美術、あらゆる芸術に当てはまることだ。この快楽を他者に勧める必要はない。自分だけで楽しめばよい。時代の風雪に耐えた古典の快楽を知らぬ者のことなど知ったことではない。

The Hedonism of Reading Good Books

泉鏡花「高野聖」

Agora日本語読解辞典』において、泉鏡花高野聖冒頭部分析完了。

2018年8月11日土曜日

「山椒大夫」溝口健二(1954)

言わずと知れた溝口の代表作の一つ。撮影宮川一夫。エンディングの海のシーンは後にゴダールが溝口へのオマージュとして「気狂いピエロ」で用いている。

「山椒大夫」

Promotional Intellectual

いずこも同じか。まだ米国や英国ほどではないにせよ、日本もその道を辿り始めているように見える。
しかしながら、ナイーブな議論をさせてもらえば、学問と永遠性は不離一体のもののはずだ。市場経済化の波に乗ろうが乗るまいが20年や30年の短期間に時代の寵児となったとしても1000年後には誰にも顧みられぬものになっていたとしたならば、それは無価値の学問だったということだ。知の永遠性を希求しようとしないものは、学者であれ大学であれ社会であれ、そんなものは消え去ってしまっても人類史的には一向に構わないではないか。

The Rise of the Promotional Intellectual

「元禄忠臣蔵」溝口健二(1941・1942)

いくつかの特徴がある。
1.歌舞伎役者を多数用い、伝統的様式美を重視したこと。
2.開戦直後の作品で、戦争賛美・忠君愛国のイデオロギーが散見されること。
3.ワンシーン・ワンカットの実験的手法が用いられていること。
4.討ち入りシーンがないこと。
全体として、溝口の様式美がよく出た佳品だと言える。

元禄忠臣蔵

2018年8月10日金曜日

デカルト

ルネ・デカルト。近代知の形成にこれほどの役割を果たしながら、またこれほど謎の多い人物もいない。

Flesh-and-blood Descartes

夏目漱石「彼岸過迄」

Agora日本語読解辞典』において、夏目漱石彼岸過迄冒頭部分析完了。

2018年8月8日水曜日

「にっぽん昆虫記」今村昌平(1963)

人はすべて虫である。随所に挿入されるストップモーションと短歌(らしきもの)がアクセントになっているだけの延々と続く昆虫観察のリアリズム。小津の代わりが居らぬように、やはり今村の代わりはいない。

「にっぽん昆虫記」

2018年8月6日月曜日

「蛍川」須川栄三(1987)

三國、大滝、殿山。日本映画の黄金時代の最後の生き残りの男優たちの演技が光る一作。逆に言えば見どころはそれだけ。原作の魅力のおかげもあり何とか最後まで見せたが、最後の特殊効果に頼り過ぎ。アニメに堕して、すべてをぶち壊した。カメラも凡庸で、この監督は一体映画を何だと思っているのだろうと思う。

蛍川

好みの声で聞き取り練習?

日本語学習も楽しくなりそうだね。

声の「コピー」もアプリで簡単 広がる音声合成

森鷗外「最後の一句」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外最後の一句冒頭部分析完了。

2018年8月5日日曜日

「甘い罠」若松孝二(1963)

暴力とエロス。ただただひどい映画と切り捨てる向きも多いだろう。完全版が失われてしまったため最終的な評価は保留しなければならないが、キャストの貧相さを除けば、私はこの作品の過激さを評価する。この激しさはこの時代、世界においても突出していた。高度成長真っ只中の日本の闇の部分を描いたこのデビュー作を皮切りに、若松は世界の映画史の中で独自の世界を切り開いてゆくことになる。

「甘い罠」

谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」

2018年8月4日土曜日

「郷愁」岩間鶴夫(1952)

少し筋の運びに無理を感じる。それから歌謡曲を挿入したのは失敗だと思う。はやり歌を埋め込んだ時点で映画はその時代だけの娯楽と自己限定してしまう結果となる。映画を芸術とは考えていないと宣言するならそれはそれで構わないが。
いくつかの名シーンもあっただけに、いずれにせよ凡庸な作品で終わったのは残念。

郷愁

2018年8月3日金曜日

芥川龍之介「煙草と悪魔」

A snapshot of life in Tokyo???

こういうのを手抜きというのか文化的帝国主義と呼ぶべきなのか。
東京に住む大多数は英語を話さない人々だ。その人たちにろくに話しかけもせずに”A snapshot of life in Tokyo”と銘打つ無知と傲慢。

A snapshot of life in Tokyo

「細雪」阿部豊(1950)

2時間半近くの長編だが、原作が谷崎自身も認める通りやや冗長なものだったから仕方がないだろう。
文化史的な面白さは多分にあるが、芸術としては陳腐のそしりを免れないだろう作品。

細雪

2018年8月2日木曜日

九鬼周造「『いき』の構造」序

醜いという事

この記事を読んで今も鮮明な記憶となっている或る出来事を思い出した。
25歳の時だったと思う、米国の或る大手出版社のエッセイコンテストに入賞して米国に招待された。社長に招待されNY郊外の広大な森の中にある豪壮な本社社屋に連れていかれた。社長のことは全く記憶にないが、その社屋の中の社長室に向かう廊下に超一流の絵画が多数掲げられていたことをよく覚えている。その中にゴーギャンのタヒチ時代の作品が何点かあった。それらに見入っていたら、私たちの案内を担当していた女性社員が突然私に「こんな醜い絵のどこがいいのか?」と質問してきた。私は色彩だと短く答えただけだったが、二つの意味で衝撃を受けていた。まず、ゴーギャン(もしくはそこに描かれたタヒチの女性たち)を「醜い」と一言で切り捨てる人間が、それも米国の一流出版社の社員の中に存在すること。さらに受賞者である初対面の外国人のゲストに向かってそのような素朴、或いは傲慢な疑問を微笑みながら投げかけたこと。彼女がそこまで知っていたかどうかは定かではないが確かにゴーギャン自身の人生は決して褒められたものではないしタヒチ時代の言動は「醜い」としか言いようがない。しかし、芸術としてあの作品群の色彩の美しさは否定しようがない。しかし、以来今日まであの出来事は折に触れ私を立ち止まらせ様々なことを考えるきっかけを与えてきたことは間違いない。
「美」とは何か。「醜」とは何か。この記事が論じる美術史におけるこの眼差しの系譜はあくまでも欧米(特に米国)におけるものである。東アジア、特に日本ではどうであったのだろうか。考えてみたくなった。

Ugliness Is Underrated: In Defense of Ugly Paintings

2018年8月1日水曜日

九鬼周造「『いき』の構造」

堅い本が売れている?

一見喜ばしいニュースだが、その背景にあるのは大統領からSNSまであらゆる偽物に満ち満ちた現在世界というわけで、手放しで喜ぶ話でもない。それに人間は馬鹿だから真面目な話はすぐに飽きてしまって、そのうちにまたセレブの自伝ばかり本屋に並ぶようになるよ。

How the ‘brainy’ book became a publishing phenomenon

「うなぎ」今村昌平(1997)

監督・脚本・カメラ・配役が完璧なら間違いのない作品が出来上がるという見本(ただしそのうちの一つでも欠ければ駄目になる)。何度も観た作品で今回こそとあらさがしを試みたが、やはりちょっと文句らしい文句のつけようがない。パルム・ドールにふさわしい名作。同時受賞が「桜桃の味」。この年は当たり年だったということだ。

「うなぎ」

2018年7月31日火曜日

徳富蘆花「草とり」

Agora日本語読解辞典』において、徳富蘆花草とり冒頭部分析完了。

No, you probably don’t have a book in you

こんな分り切ったことを編集者が言って聞かせなければならない人たちがどうやらいるらしい。

No, you probably don’t have a book in you

2018年7月30日月曜日

武田泰淳「流人島にて」

Agora日本語読解辞典』において、武田泰淳流人島にて抜粋分析完了。

有島武郎「クララの出家」

「夜の蝶」吉村公三郎(1957)

巨額の製作費をかけてまで映画にする意味があるのかと疑いたくなる一本。
高度経済成長の離陸期の日本は、ことほどさように浮かれ始めていた。

夜の蝶

2018年7月29日日曜日

「執炎」蔵原惟繕(1964)

説明臭く、主演二人の演技力も水準以下で、すばらしいカメラワークを除けば見るべきところのない作品だと言わざるを得ない。

執炎

複数の世界を持つ重要性

敢えて意識的に他言語を学ぶ事を選択するという筆者の提言(私もそれは正しいことだと思う。)がどこまで受け入れられてゆくか。そして、より重要なことは、その価値をどこまで人々に証明してゆくことができるか。すべてはそこにかかっている。

Behemoth, bully, thief: how the English language is taking over the planet

2018年7月28日土曜日

泉鏡花「照葉狂言」

Agora日本語読解辞典』において、泉鏡花照葉狂言冒頭部分析完了。

Diogenes Laertius

文字数稼ぎなのか、最後の二段落に傲慢さのようなものを感じて鼻白むのは私だけだろうか。
しかし、そこに至るまでは極めて秀逸な書評である。

Lovers of Wisdom

2018年7月27日金曜日

夏目漱石「幻影の盾」

Agora日本語読解辞典』において、夏目漱石幻影の盾冒頭部分析完了。

「大阪の宿」五所平之助(1954)

敗戦後間もない大阪。社会にも人々の心にも未だ深い爪痕が残る混乱期。しかし、人々はそれぞれのやり方で新しい時代を切り開いてゆこうとしている。当時の映画界も含め、廃墟の中から見事に立ち直った日本のエネルギーのようなものまで感じ取ることのできる秀作。恐らく当時多くの観る人の心を勇気づけたことだろう。
乙羽信子の傑出した存在感と共に女優陣の渋い演技が作品全体を締めている。

An Inn at Osaka - 大阪の宿 - Ôsaka no yado ( Heinosuke Gosho, 1954)

2018年7月25日水曜日

孤立

「孤独」ではない。「孤立」と呼んだ方がより適切だろう。
このような ‘loneliness’の例は米国や英国だけの話ではない。日本にも実に数多く存在する。そして日常的なレベルにおけるテロが毎日のように起っている。さらに在日外国人の数が増えてくれば間違いなく彼らを標的とするテロも増加するだろう。
言うまでもなく単純な処方箋などない。しかし、やはり基本となるのは幼い頃からの教育に帰着するのだろう。
およそ人間世界に関わるもので白か黒かで決めつけられるものなど存在しないこと。人の心は数式のような美しき単純性とは全く異なるものであること。曖昧なこと、どっちつかずであること、引き裂かれていること、自己の裡に葛藤があること、が通常の状態であるだけでなく望ましい状態でさえあること。
これらのことを最もよく教えてくれるものは文学をはじめとする芸術である。
AIの世紀の幕開けによりこれまでとは比較にならぬほど疎外感に苦しむ人間が増加するだろう。そのような時代だからこそ、このような芸術の役割は大切なものになるだろう。

In extremis

谷崎潤一郎「痴人の愛」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎痴人の愛冒頭部分析完了。

2018年7月24日火曜日

「綴方教室」山本嘉次郎(1938)

80年前の日本。その日の食べ物にもこと欠く階層があった。「綴り方」という支えがあった正子はそれを乗り越えてゆこうとしている。しかし、そのようなものを持たぬ子どもたちは一体どうやって耐えてゆけたであろうか。
もう一つ、憾むらくは、正子を支えたものがなぜ「綴り方」であったのか。「綴り方」そのものの持つ力をもっと描いてもよかったのではないか。なぜ「綴り方」でなければならなかったのか。なぜ絵画や音楽やスポーツでないのか、という事である。悲惨な状況の中で何か子どもたちを支えるものが必要だというだけなら、支えられるものでさえあればそれは何でもよいということになり「綴り方」そのものの価値を訴える力に乏しいことになるのだ。
しかし全体に映画作品としては、子役時代の高峰秀子の名演をはじめとして脇役陣もよく、よくできた作品だと言えよう。

綴方教室(1938)

Vincent van Gogh

時に芸術はその作り手の生の悲劇性の度合いと反比例するかのようにその芸術を享受する者に幸福を与える。ゴッホもその一人である。

Vincent van Gogh: The Struggling Artist

2018年7月20日金曜日

武田泰淳「風媒花」

Agora日本語読解辞典』において、武田泰淳風媒花抜粋分析完了。

作者の死

30年前の個人的ノスタルジアの話は別にして、今の私にはポストモダニズムへの関心はもはやない。
しかし、絵画や音楽と異なり「ことば」そのものを扱うという宿命から、文学にはことばに関するチマチマした些末な論争が付きまといがちだ。
その宿痾から自由にならぬ限り、絵画や音楽が永遠に保つであろう価値を文学は早晩失うことになるだろう。

The Author Is Not as Dead as Claimed

2018年7月17日火曜日

谷崎潤一郎「少将滋幹の母」

渇望

私の場合を考えた。
中学生の時だった。私は外国の思想・芸術(特にクラシック音楽と西洋絵画)と後にはキリスト教に関心を持ち、憧れ、好きになろうと努めた。
その年齢の私自身、周囲の大人たち、また広く日本社会に対する失望から抜け出し、未来の自分を築いてゆくためには、(当時明確に言語化できていたわけではないが)「普遍性」の世界の中に生きなければならないというようなことを感じていた。そして当時の私は漠然と「普遍」への鍵はそれらの物事であるように感じていた。
「外国の思想・芸術、特にクラシック音楽とキリスト教」というのは端的には「ヨーロッパ」ということだろう。
現在私はヨーロッパの片隅に住み、宗教は別として、45年ほど前に私が思い描いた「未来の私」にかなり近い状態にある。そして、依然としてそれ以上のレベルの価値あるものを見出していない。付け加えるとすれば、そこにヨーロッパ思想・芸術と日本思想史・日本文学・日本画などとを比較対照する視点ぐらいだろう。
確かに、それらは長い過程において私が自分で選び取ってきたものだ。そして、それは中学生当時の私の言葉で言えば「なりたい自分」というようなものを追い求めてきた歴史の結果なのだろう。
私はこのままでよいのか。私にはまだ「なりたい自分」というものはあるのか。どうやらそのような感じがしなくもない。しかし、それはまだ何ら具体的な形をとっていないのも事実である。

Desiring to desire

2018年7月14日土曜日

夏目漱石「倫敦消息」

Agora日本語読解辞典』において、夏目漱石倫敦消息冒頭部分析完了。

「Shoah」Claude Lanzman(1985)

様々な議論がある。あり得る。
あなたは「ショア―」を観たか?「イスラエルのアイヒマン」を読んだか? 人はかくも簡単に「悪」に手を染めてしまう。すべてはそこから始まる。

Homage to Lanzmann

2018年7月12日木曜日

Cultural Appropriation論議の前提

私はブルガリアに住み、高度専門労働者としてEU圏のいずれにおいても自由に労働することを保証された61歳の日本人男性である。
「ブルガリア」は「ヨーロッパ」か否か。「日本」は「アジア」か否か。「日本人」は「先進国民」か「後進国民」か。「ヨーロッパ」や「アジア」は強者の側なのか弱者なのか。etc, etc.
私は多数派か少数派か。私は強者の側にいるのか弱者の側にいるのか。
そのアイデンティティのダイナミズムの中でアイデンティティポリティクスは展開する。

The Evils of Cultural Appropriation

2018年7月11日水曜日

HINOMARU

歌詞も曲も稚拙で、しょせん子どもの鼻歌だ。論ずるに値しない。右派・左派両方から賛否両論これで大騒ぎしている国はやはり平和な国である。

Radwimps - HINOMARU Subtitulada al Español

デジタル時代における人類

結局のところ、何か建設的なことを言ってるかというと、何もない。「西洋の没落」がいよいよ現実のものとなるのかもしれない、という、ありがたくもない暗い読後感が残る。
東浩紀がどこかで言っていたように思う。人類はまだインターネットを使いこなせるだけの進化段階に達していないというような意味のことを。それはこういうことを指しているのかもしれない。

Great Books in a Digital Age?

2018年7月10日火曜日

萩原朔太郎「青猫」

Agora日本語読解辞典』において、萩原朔太郎青猫冒頭部分析完了。

「暴力の街」山本薩夫(1950)

社会派の山本薩夫が興行的にも成功した最初の作品としても有名。
敗戦後わずか5年。当時の日本のエネルギーが垣間見える。

「ペン偽らず 暴力の街」

2018年7月7日土曜日

「夜の女たち」溝口健二(1948)

敗戦後3年しか経っていないという混乱状況のせいか少々説教臭いのが気になるが、溝口はいつも強烈な印象を残す。カメラも素晴らしい。
Yoru no onnatachi (1948) Women of the Night

谷崎潤一郎「春琴抄」

Agora日本語読解辞典』において、谷崎潤一郎春琴抄冒頭部分析完了。

終わりの始まり

史上最大の瓦解の危機を迎えているEU或いはヨーロッパ全体のムードのなせる業かと考えるのは穿ちすぎだろうか。

Habsburg culture is back in vogue

2018年7月6日金曜日

2018年7月4日水曜日

浅田次郎「地下鉄《メトロ》に乗って」

私は時々朗読を聞きながら仕事する。
しかし、この作品はながら仕事ができない。朗読者のレベルも高い。強くお勧めする。

朗読 浅田次郎「地下鉄に乗って」

絵文字の研究

明白なことは、まだ何もまともなことが明らかになっていないということだ。

ACADEMICS GATHERED TO SHARE EMOJI RESEARCH, AND IT WAS 🔥

2018年7月3日火曜日

ベスト8ならず

三度目の正直はならなかった。悔しい。世界のトップはまだ遠い。
しかし、優勝候補のベルギーをあわやというところまで追いつめた。日本は着実に強くなっている。この悔しさをバネにまた4年後に向けて準備を積み重ねればいい。
しかし、やはり悔しい。悔しくて悔しくて眠れそうにない。日本代表を讃えつつ今夜は久しぶりに酔っぱらうことにする。

『Agora日本語読解辞典』33万ページ

Agora日本語読解辞典』が33万ページを超えた。

2018年7月2日月曜日

「発表」というものの恐ろしさ

著作を出版したことのある者でいやしくも自己の限界を知る者は誰でも知っている。
それは末代まで恥をさらすことだ。

Sharp by Michelle Dean review – what do Dorothy Parker, Hannah Arendt and Susan Sontag have in common?

ワセリン

小津が、すべてを計算し掌握し映画を撮っていたことを物語る。

小津安二郎監督 伸ばした手で何を?

2018年6月30日土曜日

2018年6月29日金曜日

芥川龍之介「きりしとほろ上人伝」

日本ベスト16に進出

報道陣も西野監督も、まるで大敗北後の会見のような雰囲気である。
しかし、これは局地戦での敗北であり、より高次の文脈では勝利なのだ。国際試合、特にワールドカップは「完全に国際法を遵守しつつ遂行する、誰も殺さない完全に合法的な戦争」である。「清く正しく美しい」高校野球の話ではない。局地戦をあえて捨てることにより、逆により高い次元での勝利を志向するというのは当然のことだ。
最後の決め手はフェアプレーポイントだった。これも重要な要素である。日本はこれでワールドカップに出場した20試合のいずれにおいても退場処分を受けていない。20試合連続レッドカードなしというのは現在ワールドカップ記録で、日本はこれを更新し続けているのだ。日本の戦い方が醜いというのは全く当たらないと言わなければならない。

【試合後の会見】西野監督 日本×ポーランド

But human excellence is compatible with neither the pursuit of happiness nor the flight from suffering.

39年前、僕のコペンハーゲンでの比較的孤独な1年の留学生活を支えてくれたのは角川文庫の「若き人々への言葉」だった。
僕の奥底にはその時に出遭ったニーチェが今も息づいている。
この記事を読んでそのことに今更のように気づいた。

Friedrich Nietzsche: The truth is terrible

2018年6月28日木曜日

境界の無化、或いはその試み

ゴッホに、またその中でも“Almond Blossom”に僕が最も心を惹かれる理由が何となく分ったような気がする。
それは境界の無化、或いはその試み、である。日本と西洋、人間と自然、外部と内部、遠景と近景。その境界の曖昧化・無化。それは世界の見え方を一変させる。
しかしそれは、果ては正気と狂気との境界の無化にもつながる、人を不安定な位置に宙吊りにする、極めて危険な状態でもある。

Van Gogh’s Japanese Idyll

2018年6月27日水曜日

性と書物

このエッセイの中で僕に馴染みのあるものは図書館と本屋だけだ。その図書館も本屋も、僕にとってはここに書かれているような場所でも毛頭なかった。
新鮮な驚きに満ちた思いで読んだ。
僕は相当に単純な男らしい。

The Bonds Between Sex and Books

2018年6月24日日曜日

優越者の芸術

ここで「悲劇的」という言葉を使うことは多数者・権力の側に立ち、傍観者としての立場を担保することになるだろう。
最終段落の筆者の慎みのある宣言が力強い。

Singing Against the Grain: Playing Beethoven in the #BlackLivesMatter era

2018年6月20日水曜日

「真の人文学」

酷な言い方に聞こえるかもしれないが、「真の人文学」とはそもそもパトロンを求めるものではないのではないか。「内在的価値」を売り物にしようとすることは本来の人文学とはかけ離れているのではないか。極論すれば、霞を食ってでも研究する、というのが本筋ではないか。現代の大学がその価値を認めないのであれば、自らそれを捨ててはどうか。

Stop Trying to Sell the Humanities

2018年6月18日月曜日

Tom Waits - Tom Traubert's Blues

何百回繰り返して聴いただろう。これが詩《うた》である。これが歌である。

Tom Waits - Tom Traubert's Blues

2018年6月17日日曜日

樋口一葉「たけくらべ」

Agora日本語読解辞典』において、樋口一葉たけくらべ冒頭部分析完了。

娘よりメール来りて父の日を知る

父の日。

思考力

このような精緻な思考ができる知識人が多数生き残っている社会はいずれ立ち直るだろう。
問題はそのような社会が将来いくつ生き残っているかという事だ。

Why We Don’t Read, Revisited

2018年6月12日火曜日

死とどのように向き合うか

良い書評である。いろいろと考えさせてくれる。現代の日本人はどのように死を捉えているのだろう。

Have we forgotten how to die?

2018年6月11日月曜日

2018年6月10日日曜日

小林正樹論

非常に水準の高い議論がなされている。難を言えば、技術論に傾きすぎていて、評者に歴史知識がなさそうな点だ(例えばthe sudden tapping of one defendant’s head。叩いたのは大川周明であり叩かれた人物は東条英機である。評者は大川も東条もよく知らないようだ。)。

しかし、全体的にはよく整理された議論であり、米国における日本映画研究の水準の高さを喜びたい。

History from a High Angle

Sofia Pride

今年のSofia Prideがさっき私のアパートの下を通り過ぎた。このアパートの前はよくいろいろなデモやパレードが通るが、このパレードの活気は格別だ。今年は外国人らしいドラムグループのレヴェルがとても高く、年々質量ともに上がってきている。
数年前に初めて3階のベランダからこのパレードを見下ろしていた時、たまたまその中の一人の参加者が私に気づき手を振ったので私もちょっと手を振り返した。
そして、それが毎年繰り返されるうちに、このちょっとした交歓は徐々に大きくなってきた。どうやらVasil Levski大通りのRaifenzen Bankの隣のアパートから毎年手を振り返してくれるアジア人のお年寄りがいるという話が参加者の間で少しずつ広がっているのではないか。こんな反応をしてくれる人は他にあまりいないのかもしれない。どうもそうとしか思えない。なぜなら、今年はとうとう、まだ私のアパートの前に来るかなり前からすでにパレードの真ん中あたりの数十名が最初から私のベランダの方を見上げて手を振り旗を振り歓声を上げながら近づいてきたからだ。私がベランダに出るとボルテージは一段と上がり、周りの人も巻き込んで百名以上の人が一斉に私に向かって歓声を上げ、手や旗を振り、踊り始めた。おかげで私も今年は20秒ほど手を振り続けなければならなかった。降りて来い降りて来いと誘う人も何人かいた。
なんか毎年の行事のようになってきた。特に今年は照れ臭かった。私はこういうのは苦手だ。私にはちょっと限度を超えてる。来年のSofia Prideはもうベランダに出るのやめようかな。

2018年6月9日土曜日

ISAIAH BERLIN

In our modern age, nationalism is not resurgent; it never died.そして、人種差別もそうだとバーリンは言う。

移民として、少数者として、ノマドとして、彼は思考し続けた。

IN MEMORY OF ISAIAH BERLIN

2018年6月7日木曜日

「不毛地帯」

山崎豊子の原作は言わずと知れた名作である。

このドラマもかなり良くできている。私は17時間休みなしにぶっ通しで最後まで観た。

外国に住む日本研究者の卵たちはこの辺りから入るのも一つのやり方だ。切り口がたくさん見つかるだろう。

不毛地帯

2018年6月6日水曜日

三島由紀夫「太陽と鉄」

まずこの人は三島の他の作品を読んでいないように見える。また、この人は日本の思想史を知らない(彼の言及した「絶対矛盾的自己同一」も何のことかさっぱりわからないであろう)ばかりでなく西洋思想史でさえこの人にとっては古代ギリシャではなくSusan Sontagあたりから始まっているように見える。

この一文は書評でも何でもなく、自分の言いたいことを言うために三島を悪用したに過ぎぬように見える。

米国の現在の批評の一般的水準がこの程度のものではないことを願いたい。

ただしあくまでも主観的感想である。間違っているかもしれない。

In the Fascist Weight Room

2018年6月5日火曜日

気がつけば猫探しをり夏の宵

ゴラは今、よりよい飼い主を求めてトライアルお泊り中。

2018年6月2日土曜日

アリストテレス

現代におけるアリストテレスの意義。学生時代によく読んだ。もう一度読み直してみたい。

Why read Aristotle today?

2018年6月1日金曜日

Stephen Greenblatt

ますます健在のようだ。読んでみたい。

Uneasy Lies the Head

Tyrant: Shakespeare on Power

2018年5月31日木曜日

JÜRGEN HABERMAS

例えば彼のような巨人の後継者が今どこかに現れているか?
なお意気軒高な彼の言説を聴いていて、逆に「哲学の死」のようなものをひしひしと感じざるを得ないのは私だけだろうか。

JÜRGEN HABERMAS: “FOR GOD’S SAKE, SPARE US GOVERNING PHILOSOPHERS!”

2018年5月30日水曜日

芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」

David Graeber

現在の世界が重大な問題を抱えていることはよくわかっている。そしてその解決策として現在提唱されている理論のいずれにも問題があることもよくわかっている。本当に一度大崩壊しないと突破口は見つからないのだろうか。

Bullshit Jobs: A Theory by David Graeber review – the myth of capitalist efficiency

2018年5月29日火曜日

森鷗外「ぢいさんばあさん」

Barbara Ehrenreich

死のその瞬間まで闘いをやめない人がここにいる。
“It’s one thing to die into a dead world and, metaphorically speaking, leave one’s bones to bleach on a desert lit only by a dying star. It is another thing to die into the actual world, which seethes with life, with agency other than our own, and at the very least, with endless possibility.”

Mind Control

2018年5月28日月曜日

藤田嗣治(つぐじ)、藤田嗣治(つぐはる)、Léonard Foujita、Fujita、レオナール・フジタ、レオナルド・フヂタ・・・

若い頃から私はなぜか彼に惹かれてきた。その多彩な作品はその一つ一つがそれぞれの意味で私の胸を打ってきた。

精神的にも物理的にも西と東とを激しく往還した男。日本人なのかフランス人なのかという乱暴な問題の立て方は無視するとしても、それにしてもその往還が果して大きな結実をみたと言えるのか否かがもう一つはっきりしない男。

しかし日本しか知らなかった若い頃には気づかなかったことなのだが、私はようやく最近になってその作品のすべてに共通する或る種の「哀しみ」のようなものがあるように思えてきた。

激しくダイナミックに躍動する華やかな生。しかしそこには自分にも分らぬ何かを追い求め続けてなお得られぬという哀しみはなかったか。由来も内実も出口も見えない、それが哀しみというものであるかどうかさえ自覚されない、そのような言葉にならぬものはなかったか。

Foujita: Imperial Japan Meets Bohemian Paris

2018年5月26日土曜日

芥川龍之介「トロツコ」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介トロツコ冒頭部分析完了。

Roland Barthes

学生時代に何度もチャレンジした思想家の一人だった。よく理解できず悔しい思いをしたのを覚えている。

In the Snatches of Free Time: On Collecting Roland Barthes

2018年5月25日金曜日

井上尚弥

また勝った。10年以上無敗だった相手チャンピオンがまるでアマチュアのように見える試合だった。

これで3階級制覇。数年前この人が初めて世界チャンピオンになった時に私はここで予言した。今後10年、世界にこいつを倒す者は出ないだろうと。そして、その予測をはるかに超える力強さでこの人は進化し続けている。

全17階級の全ボクサーの実力を格付けする「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」最新版では第5位に上がった。まだ上はある。しかしその前に、今年の秋に開催される、世界の四つのボクシング主催団体の各級のトップ選手がトーナメントで世界一を決めるWBSS(ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ)でチャンピオンになる必要がある。楽しみはまだまだ残っているのだ。

当初「怪物」という呼称を嫌っていた彼は、さっきの試合後のインタビューで初めて自らを「怪物」と呼んだ。確かに、文字通り「怪物」以外の形容が思いつかない。ご覧あれ。

本物と偽物

本物と偽物。

この記事を読んで、恥ずかしい、しかしとても興味深い出来事を思い出した。

ほぼ40年前、コペンハーゲン大に留学中だった私はデンマーク政府奨学金から毎月少しずつ貯めた少額の金を持って1か月のヨーロッパ貧乏旅行に出ていた。ほとんどの食事はパンとチーズと水だけ、宿をとる金もなくほとんどの夜を国際夜行列車での移動で過ごす旅だった。しかし、ちょうどソ連によるアフガニスタン侵攻が始まった時期で多くのNATO軍兵士とコンパートメントを共有して色々な議論をしたことをはじめとして、後にも先にもあれほど数多くの貴重な体験を積んだ旅はなかった。

その中のウィーンでの記憶である。地図もガイドブックも持たず旅を続けていた私は、行きずりのバッグパッカー仲間からいい美術館があると聞いてそこへ出かけることにした。ウィーン美術史博物館というような名称だった。

中を歩き始めて仰天した。文字通り立ち去り難い思いにとらわれるような作品に満ちていた。芸術に触れて感動に打ち震えるという経験が本当にあるのだと感じた。

しかし、何しろ実質的には生れて初めてのヨーロッパ美術との出会いである。美術の教科書で見た名作の数々を見て回るうちにふと疑問が生まれてきた。これほどの名作群がこんなところ(その時点ではこの美術館の名声を知らなかった。その上極寒の2月、開館直後の時間で他の入館者はほとんどいなかった。)に一堂に揃っているはずはない、「美術史」博物館という名称から考えてここは美術の歴史を学ぶようなところでこれらは模作なんだろうと考えたのだ。模作でもこれだけの感動を覚えるのだから本物に出会ったときにはどんなことが起こるんだろうと、急遽その後の旅程をルーブル・プラド・ローマ・アムスなどに変更したほどだ。

あの名作群は本物だったのだと知ったのは旅の後コペンに戻って図書館で(まだインターネットはない時代だった。)調べた時である。

あのウィーンでの感動は、本物の作品だったからなのか?もしあれらがこの記事に出てくるような極めて精巧な模作ばかりだったとしても同じ感動をもたらすのだろうか?

それはわからない。しかし唯一つ言えることは、あの出来事以降、どんな芸術に接する際にも、他者がほめるものであってもけなすものであっても、私は自分の眼や耳だけを信じて目の前の作品に向き合うようになったという事だ。

2018年5月22日火曜日

芥川龍之介「続西方の人」

沈黙と饒舌

私の辞典は世界で最も饒舌な辞典になろうとしている。
それは「声」に満ち満ちている。膨大なテクスト群が産み出す喧騒。
一方、それを編む私の中の緊張に満ちた静謐。
この逆説。

People crave silence, yet are unnerved by it

芥川龍之介「西方の人」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介西方の人冒頭部分析完了。

2018年5月21日月曜日

Philosophically, intellectually—in every way—human society is unprepared for the rise of artificial intelligence.

テクノロジーが哲学を必要とする時代の到来。それはAIに始まったことではない。人類が遺伝子操作と原子力を手に入れた時から始まっている。

How the Enlightenment Ends

2018年5月20日日曜日

原点0

森山 威男 Quartet, jazz inn LOVELY, 2012年8月10日, My Favorite Things

森山威男のドラム。
私は普段クラシックしか聴かないが、名演にはジャンルを超えて人を原点0に立ち帰らせてくれる力がある。

2018年5月18日金曜日

The tools we use to help us think—from language to smartphones—may be part of thought itself.

The Mind-Expanding Ideas of Andy Clark

とても難しい。しかしとても面白い。

私はこれまで『Agora日本語読解辞典』を私の生きがいであるとか命であるとか人生そのものであるとかいうような言い方で位置付けてきた。しかしどんな言い方をしようと、これではこの辞典を自己とは別個の他者として前提していることに変わりはない。

ところが、私は掛け値なしに目覚めている時間のほぼ90%をこの辞典に使っているし、夢の中でもほぼ毎日この辞典を作っている(そして目覚めのまさにその瞬間「セーブ」をしていなかったことに愕然とするということを繰り返している)。文字通り寝ても覚めても私の脳は辞典に占められている。今や私の生は他者や外的世界はおろか「自己」と向き合うことよりも質・量ともに圧倒的にこの辞典と向き合うことに占められているのだ。こうなってくると「向き合う」という自他関係の中にこのことを位置づけることに自ずと不自然さが生まれてくる。

「私」が、私の脳が、この辞典と内的に――外的にではなく――リンクし始めている。いま私はその原始的・萌芽的段階に入りつつあるとさえ言えるのかもしれない。私の脳そのものがインターネットに直接接続すれば辞典づくりはもっと楽になるだろう。この記事を読んでふとそんなことさえ想像した。

夏目漱石「明暗」

Agora日本語読解辞典』において、夏目漱石明暗冒頭部分析完了。

2018年5月17日木曜日

The Nationalist Roots of Merriam-Webster’s Dictionary

辞書を創るということは一つの自立した新しい世界を創造しようとするかのような幻想である。怖ろしく魅惑的な幻想である。それは眩暈のするような誘惑に満ちている。しかし、どこまで行ってもそれは最後まで幻想のままである。そのことを忘れてはならない。

The Nationalist Roots of Merriam-Webster’s Dictionary

2018年5月15日火曜日

森鷗外「青年」

Agora日本語読解辞典』において、森鷗外青年冒頭部分析完了。

A dead body or a statue cannot be set up in the upright posture without support. You must live even to stand.

How Posture Makes Us Human:The philosophy and science of standing up straight.

東洋思想の主流にはこのような視線は存在しない。古代インドには存在したのだろうか。「姿勢」と人間性。私はこれまでほとんどこの角度から考えたことはなかったが、これは西洋思想と東洋思想との間にある大きな相違点の一つだろう。

2018年5月9日水曜日

芥川龍之介「邪宗門」

Agora日本語読解辞典』において、芥川龍之介邪宗門冒頭部分析完了。

Bulgarian Diplomat Found Dead in Tokyo

Bulgarian Diplomat Found Dead in Tokyo

1.使用している写真に問題がある。
(1)使用されている写真が交通機動隊のものである。
(2)映っている機動隊員は警視庁ではなく京都府警である。
こんな幼稚園レベルのミスをJapan Todayが犯すはずはないので、これはブルガリアメディア側の問題である。
2.「The police supposed that it was a suicide, local police reported.」こんなことを警視庁が軽々に言うはずはないので確認が必要であるにもかかわらず行っていない。
3.ブルガリア外務省への確認取材を行っていない。

ブルガリアが報道の自由を獲得して30年近くになる。しかし、よく思うのだが、この国にジャーナリズムが生まれるのは一体いつのことになるのだろうか。

よその国の国内問題なのであるからほっとけばいいという考え方もあるのかもしれないが、こと日本に関する無知は国際関係の観点から看過するわけにはいかない。1.と2.に関しては在ブルガリア日本国大使館が指摘すべき事柄である。

木洩れ陽に蜘蛛の巣破り走るかな

木洩れ陽に蜘蛛の巣破り走るかな

幸せは目覚めの瞬間の春の朝

幸せは目覚めの瞬間《とき》の春の朝

2018年5月5日土曜日

碧の香を夢に現に走りけり

碧《あを》の香を夢に現《うつつ》に走りけり

2018年4月29日日曜日

A Man Threatens People with a Gun in the Borisova Garden

私のジョギングコースには当たっていないようだが、まったく物騒な話だ。この話はこの記事できょう初めて知ったのだが、無闇に発砲する奴が公園内を徘徊しているというのに、注意を促す掲示も見当たらなければ警戒に当たる職員も警察官も一人も見かけていない。これも彼らの無能さをよく表している話だ。

護身用に私はいつも棒切れとペッパースプレーを持ってジョギングしているが、無闇に銃をぶっ放すこんな奴が相手ではたまったもんじゃない。

頼むから公園内のジョギングぐらい安心してやらせてくれ。

A Man Threatens People with a Gun in the Borisova Garden

芥川龍之介「神神の微笑」

雪ならで碧に紛るる我が小径

雪ならで碧《あを》に紛るる我が小径